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親孝行、できるうちが華
68歳ステージIII、男性
これまで、大きな病気一つせず、風邪をひいても熱いお風呂と睡眠だけで治してしまうような父が、生まれて初めて、自分から病院の門を叩き、食道癌であることが判った昨年末から現在までの軌跡についてお話できることを娘の私の視点からまとめたいと思います。7年前に母を亡くし、父と私の2人だけの生活に突然襲った父の病気。親孝行らしいことを何一つしないまま、父に逝かれては、後悔が残るだけだと焦りながら模索した治療への道を紹介し、今後、同じように食道癌という大きな不安に直面している方々やご家族が、少しでも前向きに治療に向かい、きちんと冷静に真っ当な治療を選択するきっかけになれば、と願います。 2003年11月頃 朝食のトーストやオヤツの菓子パンを食べる際、何か引っかかるような異物感を覚える。当初は、食べながら水分を取れば問題は無く、特に気にする様子も無い。 2003年12月 内科の医師の処方で服用していた薬を服用するうち、気持ちのせいか、幾分ラクになったと言う。実際、パンや塊の肉を食べる時以外につかえ感は無いようで、普段の食事に困ることは無かった。ただ、確かに違和感は残るようで、問診の際にその旨を伝え、年明け早々に内視鏡の検査を勧められる。 2004年1月 毎年欠かさず恒例となった、父の地元の浅草寺への初詣も沈みがちで、浮かない顔をしている。滅多に弱音は吐かなかった父だが、吐き捨てるように『最悪の正月だ』と言い放つ。 2004/1/5 掛かっていた近所の内科にて、内視鏡とCT、レントゲンの検査。後に判ったことであるが、こちらの先生は内視鏡の専門医として、埼玉の自治医大、埼玉県立がんセンターで采配を取られた後に開業した、内視鏡のプロであったことも幸いしたように思う。 なんとなく嫌な予感がよぎり、万が一のことを考えるようになる。疑わしい食道癌、高齢者に多いと言われる逆流性食道炎などを調べ、後者であって欲しいと願いつつ、不安そうな父には『きっともう爺様だから、食道炎なんじゃないの?』とケロリとおどけて見せる。 その日の予定では、検査は午前中とのこと。通常通り勤務先に出向いたものの気がかりだったので、勤務先から父の携帯電話に電話をすると、今にも泣き出しそうな弱々しい声で『デキモノがあった。説明する時は家族も一緒に来てくださいって言ってたよ。』とつぶやいた。急に胸が泡立つような不安感に襲われ、医師に電話するも、電話では説明しかねる、とのことで、早急に仕事を早退させてもらうこととする。 このとき、偶然にも私自身が、翌週から一週間、長期休暇を取って居り、イタリアへ旅行する予定であった。しかし、咄嗟に『もしかしたら』と不安がよぎり、急遽旅行をキャンセル。父の病院に意に徹底的に付き合おうと決心した。長期の休みを取っていたのがラッキーだった、そう実感する。 その時私の頭の中にあったのは、色々調べていた際に気に留めていた、この「ガン病棟からの脱出」と、父の不安を和らげ、ふて腐れることなく前向きに治療に向かわせるための扱い方だけであった。病院に向かう前に、「ガン病棟からの脱出」をもう一度熟読し、東病院の大津先生に紹介状を書いてもらうことを決意する。会社を早退する時、直属の上司には正直に現状を伝えた。彼は、京都大学時代の学友や、看護婦さんとして働くご夫人の影響もあってか、医療問題には明るく、私が放射線化学併用療法を考えていると伝えると、それが最良の選択だと自分も思う、と応援してくれた。「ガン病棟からの脱出」を一緒に見てくれて、『遠いところからわざわざこの治療を受けに必死の思いでやってくる人も多い。受けたくても受けられず、あきらめる人も多い。それが、自宅から程近いところにこの病院があるのだから、ラッキーだと思いなさい。私の見聞きする限り、治療の結果の良し悪しは、どれだけ幸運に良い医師に受け持ってもらえたかの運の強さが大きい。これだけ流れに乗っているのだから、大丈夫だよ。』そう励まされた。 大の病院嫌いの父に、大手術だなんて、言っただけで気力負けして、治療さえ拒むのではないかとの不安もあって、手術を要さないこの放射線と抗癌剤併用療法は、父を救うための唯一の方法であると確信した。 父に内緒で、一人で病院を訪れ医師に面会すると、神妙な面持ちで生真面目な先生が話し始める。私にもショックを与えないように気を使ってくださっているのが判る。が、こちらから率直に訊ねることとした。すると、医師は、冷静にうなずき、『食道癌です。私の経験から言って、間違いありません。かなり進行しています。』と内視鏡の写真を見せながら告げられた。『やはり!!』という突き動かされるような衝撃と同時に、実に冷静に自分の意思を告げた。『治療は、国立がんセンター東病院の大津先生にお願いしたいと思います。紹介状を書いて頂きたい。』その言葉に医師は驚いた様子で、『私も、進行度やお父様の年齢から申し上げて外科的な手術ではなく、放射線による治療をお奨めしようと思っていました。東病院には、私の学友も勤務しておりますし、大津先生には面識もあります。これまでに何度か紹介状も書いています。大津先生をご希望ですか?』と確認された。そして、後日フィルムと紹介状を取りに父と一緒に来るように告げられた。その際、父への告知について相談する。何しろ強がりではあるが打たれ弱い性質で、初めにへそを曲げてしまうと、治療さえ拒みかねないと考えた。医師からは、癌センターへの紹介状を書く以上、本人に隠し通せるものではないと言われるが、はじめはがんセンターでの検査を勧める形にして欲しい、とお願いした。 その夜、家に帰ると父の姿は無く、父の可愛がっているアホ犬がポツンと座っていた。静まり返った部屋で息を整えて、極力ケロリとした調子で2階に上がる。暗闇に、布団から顔だけ出して黙ってテレビを見ている父の顔は、かつて無いほどに小さく、痩せて落ち窪んだ目だけがギョロリと光っていて、あぁ、本当に父は病気になってしまったのだ、と実感した。それでも父に向かってこう言った。 『帰りに先生のところ行って来たよ。ポリープ出来てるらしいね。結構デカイのに、今までよくバクバクご飯食べてたよね、って驚いてたよ。自分の所の病院じゃ立派な設備もないし、万が一悪性だったりしたらいけないから、大きな病院で見てもらったほうがいいよね、って話して来たんだ。来週、CTの結果を聞きに二人で来てって言ってた。話の行き違いがあるといけないから、2人で来てってさ。』と告げる。私の案外ケロリとした様子に安心したのか、父は、『そう?じゃぁ、来週までは死刑宣告なしだよな。』などと言いながら、早々に寝てしまう。 翌週にフィルムを取りに行くまでの間、何度も「ガン病棟からの脱出」を読み返し、放射線化学併用療法での治療について自分なりの知識を増やしていった。 その間も、毎日父との会話の中で、『良性にしろ悪性にしろ、どっち道イボイボが出来ているのは変わりないんだし、良性のものも悪性に変わることもあるかもしれないんだし、早め早めに手を打ったほうがいいよ。どっちにしても、治療をすればいいんだから、出来ちゃったものは治そうよ』『最初に良い医者に掛かるかどうかで全然違うらしいよ。この先生だったら大丈夫、って評判なんだって。』そう何度も話しかけ、「ガン病棟からの脱出」のHPを印刷したものを見せてみた。単純な父も、『そうだよね。出来ちゃったものは治ればいいんだもんね。』と前向きに変わって行ってくれた。たとえどんな診断でも、大丈夫、治してくれる先生に診てもらえさえすれば大丈夫。そう何度も言い聞かせ、大津先生の口から父に告げてもらおうと意思を決めた。 フィルムを待つ間、一日一日の毎日の中で、気持ちの移り変わりが激しく、前向きになったと思うと、もう長くはないのだと恐怖する時間とが交差しているようで、晴れやかな顔は一切見られない。そのうちに背中の痛みを訴えるようになったので、フィルムを待つ時間さえ長く感じられ、医師の紹介状を待たず、単独で行動を起こすことにした。 2004/1/9 事前に調べておいた、大津先生の外来の日。通常の診察を開始する前の、早朝7:00くらいに東病院に電話をし、当直の医師につないでもらう。近所のクリニックで内視鏡により食道癌らしきものが発見されたこと、本人は背中の痛みを訴えていること、クリニックの医師により大津先生宛ての紹介状を書いてもらう手はずになっているが、本人の様子が芳しくないので、一刻も早く診てもらいたい、と少々大げさではあるが必死に訴えた。当直医は、私の必死の様子の声色に圧されたのか、とにかく紹介状ナシでも来院し、大津先生が無理でも他の医師が話を聞くことも出来るので、一度来院してください、と勧められる。そのまま、身支度を整えてすぐに父を連れて家を飛び出し、直接東病院の受付を訪ねた。本当にラッキーなことに、車で20分ほどの距離。一度道を間違えてコンビニで聞きながら、東病院に到着する。大きな建物に「国立がんセンター」と書かれた文字を見て、これからはココに通うこととなるのだ、という思いがこみ上げてきた。 AM8:00 東病院着。受付にて、大津先生との面会を取り付ける。紹介状が間に合わず、アポ無しの面談希望に多少困惑されたが、大津先生ご本人と連絡を取ってくださり、午後まで待てるのであれば、お会いします、と約束を取り付ける。思いのほか待たず、簡易処置室に通される。大津先生と初対面。想像していた厳つい感じの風貌とは全く異なり、実直そうな、どちらかというと目立たない(ゴメンなさい!)雰囲気に、父と顔を見合わせる。 唯一持参した、クリニックでの内視鏡の写真を見せると、サラリと冷静に仰った。『ああ、出来てることは確かですね。食道癌には間違いないです。詳しいことは細かく調べないと判りませんが、精密検査の予約を取りましょう。』そう言って、早急に検査が出来るよう、各課に取り合って下さる。あまりにあっけなく“ガン”との言葉に、父も案外すんなりと受け入れてくれたようだ。まずは作戦成功!ここで本人の気力を失われることが何より怖かったのだ。 2004/1/15 検査当日。午後からの検査に先立ち、ギリギリまで仕事をこなしていた父と合流。心細そうに小さく見える父に付き添い、病院に向かう。父もいよいよ覚悟が決まった様子で、『徹底的に調べてもらって、治るなら任せるしかない。なるようにしかならない。』と再び前向きになってくれた。 14:30CT検査。一時間程度で終了。前向きに意思を強く持ったからか、食欲は旺盛で、帰りに野田のコメスタにて遅めのランチ。 2004/1/16 内視鏡検査。検査に使う麻酔が体に合わず、事件が発生!内視鏡室の外で待てど暮らせど父は出てこず、時間がかかるなぁと思いながらも待ち続けていた。化粧室に立ち、戻っても、相変わらず父の姿はない。不審に思っていると、中から緑色の前掛けをかけた若い先生が2人、父の名前を呼び、ご家族の方はいらっしゃいますか?と叫んでいる。急に血の気が引き、名乗り出ると、父が担架に乗せられ、真っ青な顔をして運ばれている。動転していると、先生が、『麻酔が効き過ぎた様で、嘔吐し、意識を失われてしまわれたようです。すぐに意識は回復しましたので、しばらくリカバリー室で安静にしてください。』と説明くださり、酸素吸入の処置がされる。真っ青な顔色でピクリとも動かない父を見て、いよいよ大事になりそうだ、と漠然と不安を抱いた。幸い、一時間ほどすると、顔色も戻り、意識はハッキリしているが動きが取れない様子。大事に至らず、本人も驚いてはいるものの、安心した。点滴を1時間ほど受け、自宅に戻る。 2004/1/19 AM9:30-11:30 MRI検査。バリウムを飲まされ苦しそう。後に、この検査が一番堪えた、と洩らしていた。 12:30大津先生と面談。 2004/1/20〜 なかなか病院からの連絡が来ない。その間にもどんどん進行していくようで不安が募る。何度か入院係りに電話で問い合わせるが、申し訳御座いませんの一点張りでなかなか空きはない様子。 2004/1/29 やっと病院からの連絡が来る。週明け2/2からの入院とのこと。AM10:00に受付に来るようにとの指示がある。 2004/2/2 入院当日。緊張の面持ちで受付に到着。しばらく待たされた後、8階に通される。8階受付にて出迎えて下さった入院係りの方や看護婦さんの方々はみな一様に明るく、緊張がほぐれる。一番奥の角部屋に案内される。担当の看護婦さんが説明に来てくださり、パジャマに着替えて待つようにと指示を受ける。身体測定163センチ58キロ。昨年より4キロほど落ちている。父が心電図とレントゲンに呼ばれている間、部屋を整え入院の準備。 PM15:30 担当医師である目良清美先生、岩崎順子先生、吉田志栄先生の面談を受ける。応対してくださった看護婦さんも同席してくださった。 2004/2/3 AM10:00 採血の結果を待ち、投薬開始となるが、結果が出ない。 AM11:00 放射線の小野澤先生より、治療及び副作用の説明を受ける。照射位置の設定。体にマジックで色々書かれ、浮かない顔をして戻る。 PM15:30 第一回目の放射線。拍子抜けするほど直ぐに終了。病室に帰ってくるなり、『痛くも痒くもなくて、何が効くんだろ。』とブツブツ。 PM16:30 やっと血液検査の結果が出て、投薬開始。24時間点滴とのお付き合い。 抗癌剤:シスプラチン・5FU吐気止め:カイリトル・デカドロン・プリンペラン 投薬開始と共に、蓄尿開始。 旅行とも違う慣れない環境に、念のため睡眠薬をもらって就寝。 2004/2/4〜8 翌日から早速副作用が出始める。食欲が落ち、胸がムカムカと気持ち悪いという。この日から通常通り出勤して、父を見舞えなかったので、朝昼夜と病室に電話をする。元気はあるものの、時折嘔吐するなど、とにかく気持ちの悪さは治まらない。むくみも出始め、利尿剤の薬をもらう。 見舞いの客がちょこちょこと顔を出してくれるのも気晴らしになる様子。週末は差し入れを持って行く。病院の食事は、ニオイを嗅いだだけで吐き気がするようで、差し入れに持って行ったプリンやサンドイッチなどはバクバク食べる。 入院3日目の朝だったか、父からケイタイに連絡が来る。何事かと思い訊ねると、肝臓の調子が良くないと言われたそうだ。父の話ではよくわからないので、直接先生にお電話する。どうやら、若かりし日に受けだ腎臓摘出の手術の際の大量輸血で、C型の肝炎に感染していたそうなのだ。元来酒は一切飲めない体質なので、肝臓を酷使することもないと思うが、肝癌のリスクにもなりかねないので、食道の治療の終了後、肝臓のケアも勧められ、更に家族である私にも血液検査を勧められた。これまで健康だけが自慢だった父の身に次々と災難が降りかかるようで、気が重くなる。その後、私にも感染がなく、父自身も今すぐに取り立てて騒ぎ立てる程度のものではないと思う、との意見を頂き、一安心。父の機嫌も戻った。 2004/2/10〜 治療2週目のスタート。24時間の点滴にも慣れ始め、自分でゴロゴロと点滴台を上手に扱いながら、放射線室まで出向く毎日。食事は相変わらずニオイに敏感で、地下の売店で買ったオニギリなどは普通に食べられる。食欲、吐き気共に日によって差がある様子で、本人にも予測がつかないという。祭日に差し入れた好物の焼きうどんを食べようと嬉しそうに口に運んだ途端、気持ちが悪くなり嘔吐する。やはり温めたニオイがダメらしい。看護婦さんに、『娘が毒を盛ったに違いないんです』と悪態をつく。かなり元気はありそうだ。 2004/2/16〜 この日から、放射線のみの治療となる。24時間お供にしていた点滴台から解放され、自由の人となる。元々が出好きで、じっとしていられない性質なので、早速点滴を外してもらうと『シャバの空気を吸ってくる』と外出。バスで柏に出動し、知味斎でランチ。抗癌剤を使わない日には副作用もないようで、ペロリと平らげたそうだ。その後、放射線治療のみの日には毎日外出し、ナースステーションでも出好きな人だと話題になっていた様子。 2004/2/19〜22 19日午後から外泊。病院からその足で母のお墓参りをする。家に着くと、何故かしゃっくりが止まらない。ギャグのようにひっきりなしにヒクヒクとしてうるさい。本人もくたびれてきた様子。夕飯に柏まで外食に出かけたついでに8階のナースステーションに出向き、しゃっくりの話をすると、シスプラチンの副作用によるものと判明。煎じ薬を調合してもらう。22日夜には再び病院へ。 2004/2/23〜25 病院には戻るも、点滴はなく、放射線だけの日が続く。相変わらず外出ばかりしており、この頃は何故かうどんばかりを食べたがる。毎日外出してはうどん三昧。けれど、直ぐにお腹が一杯になってしまい、量が食べられない。それが本人にはもどかしい様子。 2004/2/25〜 25日退院。すっかり痩せてしまい、洋服が全て合わなくなってしまった。セーターとチノパンを新調。最初の数日は久しぶりに治療のない自由な身に元気な様子であったが、次第に食欲が落ち、少し塞ぎがちになる。疲れやすく可愛がっている犬の散歩も行きたがらない。 2004/3/2 外来で内視鏡およびCT。食道炎の薬をもらって帰る。 2004/3/8 外来面談。病巣は縮小しつつあります、と告げられる。少し安心。ポンタールをもらう。次回入院予約をし帰る。 2004/3/16〜 入院。その日から抗癌剤と放射線が始まる。薬剤は前回と同様、5-FUとシスプラチン。今回の入院では、足のむくみが目立つ。とにかく水を飲んでオシッコで出す、を心がける。腎臓に負担がかかるので、どんどん出してください、と言われ、ムキになってお水を飲んでいる感じ。また、前回の入院時、放射線治療のみの日には毎日のように外出を繰り返し、病室での時間を持て余していた様子なので、今回は、24時間の点滴が外れ次第退院し、放射線は通院治療としてもらう。混み合うベッドの空き待ちをしている方々も居られるので、ご近所ならではの通院治療とする。この頃は前回のうどんと異なり、何故だかお好み焼きが食べたいという。それまでは興味もなかったような食べ物なのに、本人も不思議だそうだ。 2004/4/6まで、通院放射線治療。 2004/5/6〜11 3度目の入院。今回は5日間の短い期間であるが、抗癌剤が2倍量投与される。前回退院時より、随分と体重も戻ったようで、看護婦さんの方々に『随分ふっくらしましたね。明日にはまた食欲がなくなっちゃうかな・・・?』と笑われる。今回は、なかなかベッドの空きが出ず、入院までに1ヶ月ほど間が開いてしまう。その間にも進行してしまうのではないかと不安になったり、外科の手術を受け、ぶっ続けで入院生活を送っていたら、今のような自由はなかったのだ、と胸を撫で下ろしたり。今回の入院時、面白いほどにパスタを食べたがる。抗癌剤が2倍量とのことで、その副作用は本人も驚くほどに大きかったらしい。食欲は全般的にないのであるが、体力を消耗してしまう焦りもあってか、9階に行っては喫茶室ポールスターの、ガーリックたっぷりのパスタを食べている。目良先生にも、『お菓子でも何でもいいので、食べられるものを食べてください』と言われたらしく、オニギリとパスタはよく食べていた。 2004/5/11〜 退院後、次回の入院の目安となる血液検査を繰り返す。年齢のせいか、なかなか血液が上がらない。イライラしつつも、自然に上がるのを待ちましょう、との先生の言葉に、待つしかない。週に一度づつ東病院に出向き、血液検査を繰り返す。白血球が極端に低いため、風邪をひいたりせぬように、と注意を受ける。大好きなお刺身やお寿司も、白血球が上昇するまで我慢我慢。 2004/5/26 外来で内視鏡とCTの検査。相変わらず血液検査の結果がよくない。輸血も考えるが、ここまで待ったので、自然に上がるのを待ちましょう、とのこと。 2004/6月〜7月 この月は、ついに血液検査とCT、内視鏡の外来のみで終わってしまう。父は時おり苛立ちを見せ、焦りがあるようだが、どうすることも出来ない。『優秀な先生が放っておくんだから、きっと大丈夫ってことじゃない?』と慰めあう。 2004/7/20〜 CT・内視鏡。 この頃には、放射線の影響が強く出始めたのか、食事のたびに、ただれている部分が痛むようだ。飲み込む際に痛みを伴うこともある様子。内視鏡検査の際、担当の医師の『わー、スゲー!こりゃーダメだな・・・』の声に堪らず父が尋ねた。『何か、悪いことでしょうか?』どうやら、炎症が激しいらしく、細胞をつまむことが出来ないらしい。翌週再度内視鏡を受けることになる。 2度目の内視鏡の結果、炎症は相変わらず引きずっているものの、細胞はつまめたようだ。細胞検査の結果が出た後の面談で、食道部分の炎症がかなり激しいこと、炎症が長引いていることを伝えられる。 ついに血液検査の結果が良好となり、次回の治療が可能となる。早速次回入院手続きをとる。 この間、またしても事件発生!今度は私が救急車で入院することになってしまう。お風呂掃除をする際に足を滑らせ、空の浴槽にヒザを曲げた形でポトリと落ちてしまった。ボーンと鈍い音がして、『あ、伸びた』と判った。翌日、ふらつくヒザを騙し騙し会社近くの整形外科で有名な大学病院に行くと、固定するための器具が在庫切れだという。器具が届くまで、包帯で固定しましょう、と言われぐるぐる巻きにされ、安静にしているようにと告げられる。翌日、安静にして寝ていて起き上がった途端、なんだか意識が遠のいていく。しっかりせねば!と意識を持ち続けるのだが、息が苦しく床に伏してしまう。生憎その日は退院中の父も仕事に出かけており、家中不在であったが、15分ほどでたまたま父が荷物を取りに戻ってきた。倒れている私を見つけ、救急車を呼ぶ。救急病院のICUに入院。ヒザに出来た血栓が肺に飛び、急性肺血栓閉塞症(エコノミー症候群)になっていたのだ。このときも、不幸なことではあったけれど、たまたま父が退院していたこと、救急病院の当直の先生が呼吸器内科の専門医であったことの偶然が重なり命拾いした。まさに、運の持ち合わせと良い医師に巡りあえたかどうかで結果が分かれてしまうのだ、と実感することとなる。この入院では、父が『ガン患者をこき使いやがって』と言いながら毎日のように見舞いに来てくれた。また、私が大部屋に移ってから同室となった方がたは、肺癌を患う患者さんも在り、その治療風景を目の当たりにすることとなった。彼らを見ていると、大勢の患者、しかもガン以外の病気を幅広く受け持つ医師により調合される抗癌剤を24時間点滴しているようだった。その副作用は激しく、東病院での治療の様子との違いに驚かざるを得なかった。もちろん、食道癌の父の治療しか目にしては居ないのだから、比べるのもおかしな話であるが、ガン専門の医師、抗癌剤の扱いに長けた医師という最良の医師を選択し、希望して治療に向かうのではなく、近所の、通いやすい病院での一般的な治療を受けている人が多いのだ、ということを改めて考えさせられる機会となった。 2004/7/29〜8/3 私の退院を待っていたかのように、入れ違いで父が入院。抗癌剤の2倍投与はかなりのダメージだったのか、なかなか血液の戻りが悪かったようだ。いよいよ最後の治療。最後の抗癌剤である。前回同様、当初の2倍量の投与である。『今回もかなりスゲーなぁ、Wじゃぁ効いちゃうな。』と気持ちの悪さは相当なものらしい。それでも5日間だけだから、と頑張っていた。 8/3 いよいよ、お世話になった8階の病棟を後にする。これからまだまだ、長い道のりだと思いつつ、出来ることは全てやっている。あとは運に任せるしかない!との心境。
退院後〜 現在でも、稀に見るくらい食道の炎症が激しく長引いており、また、極度の貧血が続いてもいる。幸いにして柏までの距離は近いので、最後の退院から3ヶ月以上経つ今も、週に一度の外来で、輸血と内視鏡の検査を行っている。抗癌剤の2倍投与の際、あまりに血液の戻りが悪く、日常生活でも息切れや倦怠感が抜けなかったので、試しに輸血を試みた。すると、今まで我慢していたのが嘘のように元気を取り戻し、血色も良い。内視鏡のほうも、退院後初の面談の際に、聞き逃してしまうほどにアッサリと、『炎症が激しいですね。病巣自体は小さくなっているんですけれど。細胞検査も陰性ですし』とおっしゃった。その時、咄嗟に父と顔を見合わせ、思わずニンマリ。あの、大きく2つ盛り上がっていたガンが消えたのだ!本当にすごいことが起こった!! 病巣自体は縮小し、今現在も陰性であることに変わりはないようだ。しかし、今後も、遠隔転移の疑いと言われた極小の影の経過も含め、しばらくは東病院とのお付き合いは続くと思う。 振り返って思うこと。それは、約1年前、不安の塊に支配され、暗く先が見えないような気持ちで過ごした日々には、変わらずに愛犬とじゃれ合う父の姿は想像さえ出来なかった、ということ。この、オミノさんのHPに出会わずに、自らの意思で医者を選ぶことなく治療をしていたら、どんな結果になっていたのかと今でも恐ろしく思うこと。そして、このHPに出会い、オミノさんはじめ同じ病気を戦い抜いた先輩がたのお仲間となり、“ガン病棟脱出成功者”になれたことを、心から感謝しています。 そして、同じ苦しみを背負い、自分の命をきちんと守る術を知らないままで居る同胞の方が、一人でも多く“脱出成功者”になれることを、願って止みません。 ---------------- *治療を振り返って。(患者本人の手記) これまで、大きな病気もしたことが無く、
歯医者以外は病院にも掛かったことがありませんでした。 食道癌と判り、進行していると聞かされた時は、正直申し上げて助からないだろう、と思っていました。 癌とストレスの関係がよく言われていますが、後にご挨拶に伺った、初めにかかった先生の話ですと、私のような大きさになるまでに6、7年程の時間がかかったのではないかとお話をされていました。 また、手術ではなく、この放射線化学療法を選択したことは実に幸いだったと思います。 陰性になったとは言え、今後もまだ副作用としての炎症や落ちてしまった筋肉が戻るまでのケアは必要になってきますし、こまめな検査も必要となると思います。 末筆になりましたが、これまでのアドバイス、有り難う御座いました。 page uploaded on 2004/11/29 |
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