1 初期症状
平成15年の秋のころ故郷からいつものミカンが家に届いた。
一日に何個も食べる私だが、この年はどこか違った。ミカンの酸味がなんとなく喉の奥に沁みる感じがしたのである。11月の温州ミカンから始まって八朔、きよみ、早春の2月に伊予柑という種類のミカンが送られてきて柑橘シーズンが終了するのだが、その最後の伊予柑を食べた時も違和感があった。
その年の夏には人間ドックへゆく予定があったのでそのままにしておいたが、そのうち別の食べ物を飲み込んだ時にも違和感があり、とくにトマトジュースが食道の奥に引っかかる感じが顕著になっていった。しかし、後になって考えてみるとなぜこの時点で食道がんを疑わなかったのか不思議である。
2 食道がん発見
平成16年7月28日、ある地方都市の総合病院で人間ドックを受診した。いつもならばバリュウムを飲んで済ませるのだが、今回は食道の事もあるのでオプションの検査である胃カメラを選択し、三十歳代の内科医と看護師の二人のコンビに上記症状を説明して食道もしっかり見てほしい旨要望し、内視鏡の検査が始まった。
この病院は胃カメラの映像が患者にも見れる配置であったのでなんとなく自分の内臓の映像を見ていた。内視鏡も胃の中を見て終わりそろそろとカメラを引き出しにかかったころ、急に二人の雰囲気が変わりあわただしくなった。映像を見ると明らかにおどろおどろしい異形のブツブツとした物が写っていた。ヨードを食道にかけられ、生検用に食道の組織を取られ、カメラが引き出されたとたんに
「食道がんです」
「はあ?」
「すぐに入院の手配をします」
「はあ、食道を取って胃をくっつけるんですか?」
「それができれば良いんですが・・・」
「治るのですか」
「この病気は厳しいです」
これが私の記念すべき「がんの告知」だったのである。
3 食道がん治療方法の検索
「今日までは人のことだと思うたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」の古歌の通り頭の中は色々な思いが駆け巡り、あるいは呆然として車を運転して家に帰った私は、インターネットで食道がんの検索をした。色々なサイトに書かれている「なかなか治りにくい」「予後が悪い」「五年生存率15-30%」「手術時間12時間」の文字列に圧倒され、食道癌切除例生存曲線なるものを眺めては悲鳴を上げた。
いたたまれなくなった私は本屋へと車を走らせた。道行く人々を眺めると、なんとなく人々と自分との間に昨日は無かった広い溝のようなものを感じる。それはたぶん寿命を知った者がそれを知らない者へと感じる嫉妬のようなものだったかも知れない。
本屋では何万円もする医学の専門書を立ち読みしてみた。特に食道がんの手術の方法を詳しく書いた本は写真入りで説明されており、そのすさまじさにたじろいでしまった。何冊かの癌に関する本を購入後、近くの中古本屋からさらに数冊の民間療法の本なども購入し家路についた。
再度検索をしているうちに食道がんに対する標準的な治療方法は「手術」でありそれが無理な患者に「抗がん剤による治療」「放射線治療」その他「温熱療法」「免疫療法」等々があることが分かった。しかし本屋で見た手術の大変さが頭に残っており、また医者から受けた印象から自分のがんは重いものと憶断した私は手術以外の放射線で治療をすることにこの時点で決めてしまった。完治が無理ならば放射線で一年でも二年でも長生きすればよいと思ったのである。
4 放射線化学療法
仕事の合間に病院検索をしていた私は放射線化学療法という方法があり、どうも手術と同じ効果があるらしいことが分かってきた。(食道癌に対する放射線化学療法・・・服部三太著書、国立がんセンター東病院内視鏡部など)
それまでは治療方法と病院ばかりを探していた私は放射線化学療法を受けることを決断し、体験談をやっと読む余裕ができた時このオミノサイトを見つけたのである。最初からこのサイトを読めば良かったと後で悔やんだ。
5 病院探し
8月5日、すでに放射線化学療法で治そうと決めていた私は妻と娘をつれて私の食道がんを発見した医師と面談した。生検の結果やはり癌細胞が見つかったとのことで正式ながん告知(ステージU〜V)を受けた私は
「手術はお断りします、放射線化学療法で治したいと思います」
「私もそのほうが良いと思っていました。(おいおい、手術の手続きを進めたのは誰?なんて口が裂けても言いませんでした。)」
「国立がんセンター東病院へ行こうと思いますので紹介状を書いてください」
「その前にこの近くの県立○○病院の放射線の先生がイケイケ(言われたとおり)
先生なので一度見てもらったらどうですか」
6 県立○○病院
8月10日、
○○医師
「君のがんは食道の中ほどと下のほうと二箇所あるが、上から下に皮膚の下を通って移ったものである。したがって食道の広範囲に放射線を照射せねばならなく、君の身体がもたず死んでしまう。ここは手術が適当でしょう。」
「先生、放射線化学療法で治したいんですが」
「あれは手術もできないような末期の患者がやるものだ」
すでにオミノサイトの体験談を読んでいた私はこれ以上は時間の無駄とばかりセカンドオピニオン代金五千円を支払って早々に帰ってきました。
7 国立がんセンター東病院
その足で最初の総合病院で国立がんセンター東病院の大津先生宛ての紹介状を書いてくれるように依頼し、8月23日の先生の診察曜日に合わせて上京した。
総合病院での資料をみた先生の診断はステージTとのことで耳を疑った。それまでステージU〜Vと聞かされていたからである。さらに
「二箇所のがんがあるのですが、これは上から下へ移っていったのですか?」
「いや、食道がんの場○○%の割合で同時に別々に発生することがよくあります。」
(おーい、県立○○病院の先生・・とは言わずに素直に喜ぼう)
「君のところから関東まで来るのは大変だから同じ治療法をやっている松山にある国立病院四国がんセンターで治療してみては?」
8 国立病院四国がんセンター
8月24日、松山の国立病院四国がんセンターへ行った。そこの先生のカルテを見ているとステージU〜Vと書いている。
「あのー、国立がんセンター東病院ではステージTと診察されたんですが」
「うん?これがTなわけはないでしょう」
と内視鏡の食道癌の写真を指差しながら
「それに診断より悪く考えたほうが確かなんだ」
「私は内視鏡の見た感じで判断はしない」
「CT画像も信用せんけどね」ニヤリ。
(すごい、それじゃあ先生は超能力者であり感じで判断するんですね、とは口が裂けても言えませんでした。)
(※結果論であるがこのときステージU〜Vで4 クール治療法を受けていれば運命は別の方向へ行ったのかもしれない。)
行くところが無くなれば困ると思い、しかたなくここでの入院を予約した。東病院では新しく6週間療法を始めていたのに、国立病院四国がんセンターでは以前国立がんセンター東病院で行っていた4 クール治療法であり、それがなんとなく古い治療方法のようで不安だった。
17:30大学桟橋係留中のくまの帰船。
8月25日、冷静に考えているうちに次第に不安になっていった。どんなに遠くて出費も多くても、自分が納得いく病院で悔いのない治療をしてもらおうと思い再度国立がんセンター東病院へ電話、大津先生に繋いでもらう。
「先生、やっぱり先生に治してもらいたいのですが・・・」
「わかりました、8月30日に食事を取らないで来てください」
これで私の腹も決まり、癌と戦う前準備が終わったと思った。
9 健康食品類
多くのがん患者と同様、食道がんの情報を集めるのと平行して、サプリメント食品および健康法など、わらにもすがる気持ちで本を探した時期がある。
「私はこれを飲んで癌が消滅した」「○○の脅威の効き目」etc
アガリスクなる南米のキノコ加工品、ビタミンC剤も購入した。ただしどれも即効性、再現性がなく効き目に個人差のあるこれらのどれを信じてよいか分からない。
その中で選んだものが「ゲルソン食事療法」であった。自然治癒力を高めるために無農薬の野菜を日に○○も取るこの療法に納得した私は早速ジューサーを買い求め、家内に人参ジュースを作ってもらった。驚いたことに人参がこんなに甘いとは今まで知らなかった。 食事療法は不味いので継続が難しく、塩を完全に抜くこの療法もいつの間にか元の木阿弥になってしまった。
私の場合は船に乗っており、船内の食事をどうしても食べねばならず、無理であった。ただしこれ以降、市販の野菜ジュースは毎日飲むように心がけている。
また昔習った気功、ヨガ、瞑想なども思い出したように始めた。
10 早期胃がん発見
8月30日
28日国立病院四国がんセンターへ預けておいた資料を受け取り、29日夜行バスに乗り、30日早朝国立がんセンター東病院に到着した。
大津医師の診察後採血、CT検査、内視鏡検査。
ところが内視鏡検査のとき画像を見ていた医師が突然「胃に癌を見ぃつけた。」(うん?)
※ この時胃がんを見つけていただいた医師が後の主治医となる服部医師であった。
再度の大津医師の外来診察で食道に三ヵ所のがんがあり、そのうちの上の一箇所が比較的大きいこと、新たに早期胃がんが見つかったことを知らされた。
ただし胃がんのほうは初期らしいので「食道がんのほうの治療が終了した時点で内視鏡で取るなりの手立てを考えましょう。」とのことであった。
念のため食道がんのステージを再度聞いたところ「前にも説明したとおりTだと思います」とのことだった。
※多重癌とは、2個以上の異なる臓器に同時性、または異所性に原発性癌が発生した場合の呼称であり、同一臓器にできる場合を多発癌、異なった臓器にできる場合を重複癌とよぶことが多いらしい。
当日は台風17号が西日本上陸のため帰りの新幹線は大阪から広島間が不通となり新大阪のビジネスホテルでの一泊となった。
食道がんだけでも大変なのに胃がんが追加されショックも大きかったが、がんのできやすくなった自分の体質についても考えずにはいられない。
日に60本の喫煙と3合の飲酒が原因だと思うが、精神的なストレスにも誘発原因があるらしい。また野菜も多くは食べない。
一説によるとがん細胞が目に見えるくらいに育つには、10年から12年ほどの期間を要するらしいが、そのあたりの自分の過去を振り返ってみると、大きなストレスは同僚の自殺があったのみである。
9月6日
国立がんセンター東病院にてCT検査、咽頭スコープ検査、大津医師の外来診察。
食道がんの患者は咽頭にもがんが発見されることが多いらしい。びくびくしながらの外来診察であったが幸いにも「咽頭にはがんらしき物は見当たらなかった。」との説明を受けた。
9月9日入院日(9月13日)が決定したとの連絡があり。
いよいよ食道がんとの闘いが始まるとの気を強くする。
11 放射線化学療法
人が病気になったとき病院、医師、治療の三つの選択は大切な事柄であり、これにより闘病人生、その後の人生が大きく変わる。
放射線化学療法も4クール治療法と最近国立がんセンター東病院で始めた6週間治療法とがある。
国立病院四国がんセンターでは4クール治療法であったが私は6週間治療法を受けた。この治療法は放射線を六週間かけて合計28回照射する。これに平行して最初の一週間、五週目の一週間に抗がん剤を投与する。
「ステージU〜Vの場合はさらに1クール抗がん剤を投与しますが、あなたの場合はステージTなのでこれは行いません。」
この時は「ラッキー♪」と思っていたが、結果的にはここで「いやたとえステージTでも私にももう1クール投与してください」と言えば良かったのであるが神のみぞ知るであった。
第一回目入院 7階A棟710号室
9月13日(月): 前日の夜行バスにより家内と病院へゆき入院手続きをした。
7階A棟710号室の廊下側のベットに荷物等を整理し同室の患者に挨拶を
済ませ、昼から放射線の位置を身体にマジックでマーカーをつけた。
私の主治医と決まった服部医師から巡回時、挨拶を受けた。
9月14日(火): 再度位置マーカーの設定後、放射線科の医師より説明を受けた。
9月15日(水): 10:30より抗がん剤点滴開始(シスプラチン、5FU)
放射線照射開始
オミノサイトで水分を多く取り小便をなるべく多く出す旨のことが書かれていたのでペットボトルを抱え込んでひたすらトイレに行く。
そのせいかよくトイレに行き、看護師が「6時間で3,000cc出ています。
今まで日に5000cc出した人はいましたが8,000ccは・・・・。」
(ヤッタネ!! 新記録達成)
9月16日(木) : 抗がん剤点滴(吐き気止め、砂糖入りの水(フィジオゾール) 、5FU、)
放射線照射
気分は普通であり痛みも感じず
9月17日(金): 5FU
放射線照射
入院以来付き添ってくれていた家内もペットの犬の世話のため帰った。
食道がんが自分を主張し始める。まるで「自分はここにいるぞ」とでも言うようにズキンズキンと痛み始めた。また抗がん剤のせいか便秘気味となり薬をもらった。
9月18日(土) : 抗がん剤点滴(5FU)
9月19日(日) : 18:00 抗がん剤(5FU)点滴終了。
9月21日(火) : 採血
放射線照射
9月22日(水) : 放射線照射
少し痛みが出る。
9月23日(木、休日) : 朝のうがいで血が出る。
食道の痛みが強くなり、水を飲むのも痛い。
9月24日(金) : 放射線照射
退院
※この時点ではまだ食事も痛みを我慢することができ、抗がん剤の副作用もあまりなかった。
放射線照射のため通院
国立がんセンター東病院では入院希望の患者が多く待機しているため放射線を受けるだけでは入院させてはくれない。したがって遠方からの患者はこの二週間ほどはウィークリーマンションを借りるかビジネスホテルから通うしか方法はない。
私は駅に近く安い料金で泊まれる柏プラザホテルを利用した。
このホテルの一番安い部屋は5,000円と5,600円とがあるが両者の違いは安いほうは窓が隣のビルに隣接しており見晴らしが悪い。
9月27日(月)
7回目放射線照射
9月28日(火)
8回目放射線照射
9月29日(水)
9回目放射線照射
放射線科医師診察
9月30日(木)
10回目放射線照射
食道の痛みも少なく普通に食事がとれた。
10月1日(金)
11回目放射線照射
10月4日(月)
12回目放射線照射
内視鏡検査
10月5日(火)
13回目放射線照射
採血、外来診察
10月6日(水)
14回目放射線照射
10月7日(木)
15回目放射線照射
10月8日(金)
16回目放射線照射
10月9日(土)〜10月11日(月)帰省
10月12日(火)
17回目放射線照射
二回目入院、7階B棟727号室
10月13日(水)
入院
18回目放射線照射
10月14日(木)
19回目放射線照射
10月15日(金)
20回目放射線照射
10月18日(月)
抗がん剤点滴開始(シスプラチン、5FU)
21回目放射線照射
10月19日(火)
抗がん剤点滴(5FU)
22回目放射線照射
シャックリが出る
10月20日(水)
抗がん剤点滴(5FU)
23回目放射線照射
シャックリが出る
10月21日(木)
抗がん剤点滴終了(5FU)
24回目放射線照射
シャックリが出る
食欲不振
10月22日(金)
シャックリが出る
食欲不振
10月23日(土)
食欲不振
夜テレビを見ていると地震が来た。7階で高いせいか結構ゆれる。テレビで新潟の中越地方で地震とのテロップが流れる。テレビを見ていると「あ!今結構強い余震がありました。」
とレポーターが言って一秒後くらいに関東地方も揺れる。
10月24日(日)
食欲不振
10月25日(月)
食欲不振
25回目放射線照射
退院
10月26日(火)
食欲不振
26回目放射線照射
10月27日(水)
食欲不振
食道の痛みが強くなる。
27回目放射線照射
10月28日(木)
食欲不振
食道の痛み強し
28回目放射線照射
放射線治療終了
家へ帰る。
※ 食道の痛みは退院後4、5日は痛かった、特にシャックリなどは激痛が走ったが痛み止めのポンタールは最後まで飲まずにすんだ。
11月16日(火)
CT、内視鏡検査。
11月30日(火)
外来診察、この時点では一応癌は見当たらず今後三ヶ月ごとの観察を要するとの診断を受ける。
12月6日(月)
職場復帰。
12 早期胃がん内視鏡的粘膜切除術(EMR)
病院からもらった説明書によると内視鏡的粘膜切除術(EMR)にもストリップバイオプシー法、(胃、食道)、キャップ法(胃、食道)、ITナイフ法(胃)の3つの方法があるらしい。
わたしの胃がんは早期とはいえ大きいためITナイフ法を予定しており、この手術の長所は従来の方法では、切除が難しいとされていた2cm以上の病変や、繊維化を伴う病変を高率に確実に取り除くことができる。短所は出血が多いく穿孔が多めにある。(1〜3%)
このため内視鏡で取れると思うが手術の場合もありうることを説明された。
※ ITナイフ法
ストリップバイオプシー法と同様に粘膜下層に液体を注入した後、先端に絶縁体のついたナイフ(ITナイフ)で病変の周囲を全周にわたって切開する。
その後、スネアをかけて電機を流して切除する。
平成17年1月18日(火) 5階A棟510号室入院。
夕食後は絶食となった。
1月19日(水) 手術
朝の9時から点滴開始。翌日まで続く。
医師からは「息を吐いて吸って」と指示しますから言われたとおり行ってくださいと言われていたが、途中から急に吐き気を催し「ゲエーゲエー」やっていると麻酔の追加をされたらしく眠ってしまった。医師に呼び起こされて取った「物」を見せられたがあまりよく覚えていない。
1時間の予定が2時間で無事手術が終わり、ストレッチャーで病室に帰った。
これらはほとんど眠っていてうろ覚えであった。
1月20日(木) 内視鏡検査
大津医師により内視鏡検査を受け、少し出血のある箇所を焼いてもらった。
1時間後より水分、2時間後より流動食補給可能となる。
午後服部医師の回診で出血は普通で順調であることの診断を受ける。
1月21日(金) 3分粥
1月22日(土) 5分粥
1月23日(日) 全粥
1月24日(月) 退院。
入院中、退院後も出血せず、ほとんど痛みもなく順調に回復していった。
13 局所発生
平成17年2月22日
三ヶ月目の観察検査日だ。
採血、CT、内視鏡検査を受けた。
内視鏡検査時、ヨードを注入し、あわただしい周囲の医師の雰囲気で、なんとなく結果が悪いのが分かるもので、カメラを取り出した後「結果は主治医から聞いてください」と言うのもいつも悪い時だ。
主治医、服部医師の診察で結果が悪いこと、再発ではなく以前の食道がんが残っていたイザン(居残?・・・検索するも分からず)がんだと思う旨の説明を受けた。
前の内視鏡の検査時、食道がんの一番大きな部分が少し盛り上がっていたが、目の前の食道内の写真を見ると、そこがヨードで染まらず不気味に白く光っている。「ああ!!やはり」という気持ちと「まさか」という気持ちが交差する。
おかしなもので、放射線化学療法が終了した時点で自分のがんは完治したものと思い込み、完全に以前の生活に(量は減ったとはいえ晩酌を復活していた)戻っていた。
2月25日
正確ながん細胞の深さを調べるためEUS(超音波内視鏡検査)を受けた。
麻酔を注射されたため痛みも無く短時間で検査は終わった。
今後の治療方針を服部医師と話し合ったが、がん細胞が筋肉層の近くまであるため
1 内視鏡手術・・・全部取りきるのは不確実である。
2 光線力学療法(PDT)・・80%の確立で取れる。
3 手術・・・手術中に死亡する確率16%
の方法のいずれかをチョイスするように促された。
オミノサイトで光線力学療法(PDT)を読んでいたので迷わず「光線力学療法(PDT)でお願いします」と答えた。
光線力学療法(PDT)は国立がんセンター東病院でもまだ実験的段階であるため、三人の医師を専従として専門医師を育てる方針であった。
この時点で私の主治医が服部医師から矢野医師へと変わった。
光線力学療法(PDT)
PDT(光線力学的療法)とは、光に反応する液体ががん細胞に取り込まれ、それに特定の波長のレーザー光を照射することによってがん細胞内に活性酸素を発生させてがん細胞のみを壊死させるものらしい。この液体そのものは人体に害はないが、正常な細胞にも少しはこの液体が取り込まれているため、紫外線によって反応し、日焼けのような状態となるため、液体注入後の一月間は紫外線対策が必要となる。つまり家にいてもカーテンを常に引いた状態であり、外出は夜間のみであった。どうしても昼間に行動せねばならぬ時は市販の日焼け止め(サンオイル)を塗ってからの外出となる。
平成17年3月4日四回目の入院。
国立がんセンター東病院ではPDTによる治療は三人の医師を専門に育てようとの趣旨から私の主治医も服部医師から矢野医師へと交代した。
内視鏡科の大木看護師が来室し、光線力学療法(PDT)は国立がんセンター東病院においてもまだ実験的段階であり、患者の食事の様態をアンケートにまとめている旨を説明され協力を求められ、快諾した。
3月5日、服部医師によりフォトフリン液注射
服部医師が「これだけでわれわれの給料が吹っ飛ぶほど高価なのですよ」とのこと。
コップ半分ほどの量の茶色い色をした液体を注射される。冷やっとした感じがしたがそのほかには自覚症状なし
3月7日、矢野医師によるレーザー治療(約40〜50分程度?不正確)
3月8日、矢野医師によるレーザー治療(約30分程度?不正確)
一回目、二回目共にボーとする程度の麻酔を処方されていたので痛みは感じず。意外と短時間で終わった。
治療後の2,3日は痛みもたいしたことはないなと思っていたが次第に鈍痛が強くなり、そのうち一日に2,3回痛み止め(ポンタール)を飲まずにはいられなくなった
3月9日、矢野医師による内視鏡検査
矢野医師ともう一人の女医により検査をしたが、そのうち女医の「焼けていないなあ」との声が聞こえたような気がした。それを聞いた時は力が抜けるようなショックを覚える。
本当ならば家内は今日午後には四国へ帰る予定であったが、夕食前の矢野医師回診時の説明を一緒に聞かせようと思い帰国を引き伸ばしたが、夕食前の午後6時ころ矢野医師が見えられたので「先生、内視鏡の結果はどうだったですか」と質問したところ「よく焼けていました」とのこと。家内と顔を見合わせて安堵する。
3月14日、矢野医師による再度内視鏡検査。 この時は終わるとその場で「順調です」と言われる。その日の夕方の回診で退院日を16日と決定された。
3月16日、退院
家に帰り最初の一週間は流動食が中心となり、痛みも日に二回の痛み止め(ポンタール)が欠かせなかった。
3月23日、食道拡張術と壊死したがん細胞の除去を行う予定であったが、食道が狭くなっていないこと、内視鏡のバキュームで壊死細胞が吸い込めたことで、一分ほどで治療終了した。
退院二週目からは痛み止めの服用を中止し、食事も通常食を食べることができた。
3月30日、内視鏡で検査するもやはり食道は狭くなっておらず拡張術は中止とした。
次回の検査日は一週間後の4月6日であったが、二週間後の4月13日まで様子を見ることにした。
桜もほぼ満開の平成17年四月吉日の現在、痛みもなく食事も普通に取れている。PDT治療で必要な食道拡張術、壊死細胞の掃除などは私の場合必要はなさそうだ。それゆえがん細胞が壊死していないのではとの不安もある。
がんになって変わったことといえば、昨年の夏以来禁煙が続いていること、毎日飲んでいた晩酌も月に2,3回程度になったことである。食道がんが消滅したかどうかは二ヶ月後の検査で明らかになるが、それでも残っているようならばもう一度のPDTの挑戦が可能である。医師の説明では三度目あたりになると「細胞組織がグチャグチャになり無理」だそうだ。
私が最初にがんを告知された時、ここの闘病記は非常に勇気づけられたし参考になった。
ただし、あたりまえではあるが完治した成功者の数と同じく、放射線化学療法、PDTでも治らず手術に進み亡くなった方々もいるだろうし、最初から手術を選択し長寿を手にした方もいるだろう。その選択もまたその人の人生であり,寿命だろうと思う。私の体験談がチョイスするときの資料になっていただければ望外の幸せである。
uploaded on 2005/08/15 |