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序章
食道ガン発見
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あれから1年
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そして3年
4年
生還
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主幹プロフィール メール ポリシー
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新たなる勝利者たち めざせ戦うガン患者 供養塔
娘の力 父六十歳ステージII〜III
私は、今時ありがちの、あまり父親と口を利かない、可愛げのない娘です。
全然いい娘ではありません。色んなこと後悔しています。
でも今は、私ができる事をやれるだけやろうと、そう思っています。
父(患者・60歳・熊本在住)は、母と私(娘)の3人暮らし。
ほぼ年一回、レントゲン・痰の検査を受けていた。
01年6月半頃 父は、食べ物の通りが悪くなり、 6月末おう吐した。
職場でも卵サンドイッチを詰まらせる。
病院嫌いの父も、さすがにこれはヤバイと、5月に定期検診
でレントゲンを受けたばかりの病院に行く事を決意した。
病院での内視鏡検査後。父は医師から説明を受けた。
「ポリープができています。薬で治るとは思うが、手術が必要かも
しれません。ウチでは出来ないので、紹介状を書きます」
紹介状と内視鏡写真を持って**病院へ行く事に。
単なる食道炎か何かだろうと思っていた私は、ネットでそれを中心に、
軽い気持ちで検索していたのだが、病院をかわると聞き、少し動揺
した。 まさかと思いながらも「食道癌」で検索を始める。
7月12日(木) **病院、担当医(外科)の初診。検査なし。 母も同行。
7月16日(月) レントゲン検査。 放射線科からの説明。 母も同行。
「潰瘍ができてます。鎖骨のちょっと下から5.5cm。内視鏡で取る
取るのは無理でしょう」
「ガンですかねえ」という父の問いにはハッキリと答えず、前の説明を
繰り返し、うやむやに。
これで父は自分がガンであると確信したという。(後日談)
母も私も言葉に出したりはしなかったが、間違いないと思った。
この頃、私は食道ガンについて深夜〜明け方までネット検索。
検索を重ねるうち、病気についてある程度の知識を得るも、正直
あまり希望を持てなくなっていた。術後苦しむ患者さん達の報告は
読むのも辛かったし、やがて父もこうなるのかと思うと怖かった。
7月19日(木) 内視鏡検査。母も同行するが、検査のみで説明なし。
この頃、オミノ氏のサイトを発見する。
大病院を渡り歩く氏の姿に感銘を受けると同時に、国立がんセンター
で治療を受けられる地理的環境にある人達がうらやましくもあった。
オミノ氏が受けたこの放射線+抗がん剤の治療、この方法なら父は
助かるかもしれない。
熊本で出来ないのだろうか。
母にこの事を話してみると、それで助かるんだったら・・・と前向きな返事。
医師に相談してみようと思った。
7月23日(月) CT検査。母と私が同行。が検査のみ。
7月26日(木) 担当の医師から説明を受ける。てっきり告知されるものと思って
いたが、いきなり「潰瘍ができてますね」と言われ、一瞬拍子抜け。
簡単な説明の後、父は検査を理由に部屋を出され、母と私が残さ
れる。ここで初めて父がガンである事を告げられた。
かなり進んでいます。口から20cm下付近です。リンパ節も腫れて
います。転移はわかりません。深さは超音波内視鏡をまだやっていな
いのでわかりません。といった事を言われた。
で私は言った。インターネットで色々調べた事、手術ではなく、放射線
治療をやる事は出来ないかと。
「出来ますが手術ほど予後が良くない。手術をするか放射線をするかは、
入院して更に詳しい検査をし、他の科の先生達ともよく相談しなければ、
そう簡単には言えません」
色々調べてきたとおっしゃったから・・・と言いながら更に続ける。食道ガン
の手術はとても難しい事なども説明された。
がインターネットの情報が全て正しいとは限らない、とも一言。
「そんな事わかってますけど(怒)」
今とにかく手術がたくさん控えており、ベッドが空くのが1ヶ月先になるのか
2ヶ月先になるのか分からないとの事。その理由については、かなり詳細
に説明され、びっしりスケジュールの書き込まれたカレンダーまで見せられた。
「今はセカンド・・・セカンド・・・の時代ですから、もちろんデータ全て持っ
ていかれて結構ですし、紹介状も書きます。病院を移られてもいいし、
もちろんまた戻って来られてもいいですよ」
私の説明不足も多々あったのだろうが、なにか否定された気分だった。
その夜。
関東の病院でナースをしている親戚(仮にA)に相談してみる事にした。
長年勤めてきた大大大ベテランのAなら、何かいいアドバイスをくれる。
味方にもなってくれる。そう期待した。
が、Aは手術しなければイカンと言った。肝臓に転移してなければ
(あるいは少しの転移であれば)手術なのだと。
手術じゃなければ5年もたないとも。
「でも予後が・・・」
「予後って意味はね―」と、言葉尻をつかまえては指摘。
合併症のことを言うと、
「全部が全部そうなるわけじゃないでしょ。放射線だとすぐには物が
食べられないし、ガンが小さくなるだけ。手術しない限り根治は無理
なんだからね」
私とAはかなり言い合ったが、どこまで行っても平行線。
Aは母に電話をかわれと言う。
「じゃAさんは手術って意見なんだね?」
「そう」
Aは母にも、手術してリンパ節も取って、という話をしていた。
経験豊富なナースの言葉は強力で、母は抗がん剤+放射線の治療
に前向きだったのに、
「やっぱり手術なのかなあ・・・」と言い出す。
私、孤立か?
どうしたらいいか分からなくなる。でもこのままじゃ絶対ヤバイと焦る。
オミノ氏にメールしてみようと思った。
今までの出来事を詳しく書き、深夜メールを出す。
7月27日(金) 朝、オミノ氏から電話!続いてFAX、メールと立て続けに送信していた
だく。あまりの素早い対応に、ただただ感動。
いただいたFAXは東病院・大津先生の治療で完治した患者さんの
新聞記事。母もその記事を真剣に読んでいる。
オミノ氏からは東病院に来なさいと言われたが、この時はまだいくつもり
など全くなかったし、それに本人には、まだ病名を言っていなかった。
この頃の母と私は、父の前で常に緊張していたし、病名を隠すことに
疑問を持ちながら、それをやっているという苛立ちもあった。
どの治療にするか決めるのは本人だ。その為には病名を知らなきゃ
話が進まん。
でもいつ、どうやって言う?
昼1時過ぎ。 またAから電話。 母が話す。
母が「NHKで食道ガンには放射線が効くと言ってた」と言うと、日本
ではまだ手術の方が技術がいい、というようなことを言っていたそうだ。
夕方。 **病院に電話。 担当医につないでもらう。
「やはり本人に本当のことを言った方がいいと思うんです。外来で
超音波内視鏡をやってもらって、その時に先生からおっしゃっていた
だくという形にしてもらえませんか」
「もちろんいいですよ」
そして担当医は父の病状などについて説明した。
この時点で、国立がんセンター東病院は、まだ選択肢の一つだった。
病院を移るんだったら九州内がいいと思っていたし、取引を控えた
仕事を中断して、遠く千葉まで行くことが父にとって本当にベスト
なのか?悩みまくった。
というような事をオミノ氏にメールしたら、喝を入れられた。
日本国内、言葉も通じる習慣も変わらない、何をためらうのですか?
優先順位を確認して下さい!と。
目が覚めました。
7月28日(土) 国立がんセンター東病院へ行くことを決意。
大津先生の話を聞いた上で、どの治療を受けるか、父に決めてもら
おう。母と相談し、とりあえず私だけでも資料を持って千葉へ行こうと
いう事になった。
Aに電話。相談した以上、Aを無視するわけにはいかない。
「東病院に行くけん」と宣言。
Aはやはり手術の良さを説いてきた。
私は言った。私が調べた限り食道ガンの手術はそんな簡単なもん
じゃない。術後の合併症もヒドいし、その後の生活レベルもかなり
落ちるという。インターネットにも沢山出てるぞと。
「インターネットに出てるのは情報の一部だけだからね」とA。
更に食道ガンの手術をして元気になった人を何人も知ってると言う
ので、じゃあ今すぐ患者の名前挙げてみろと怒鳴ったりして、そんな
調子の議論が何時間か続いた。
でも最終的には、私が資料を持って東病院・大津先生に診てもらう
という事でお互い納得した。
別れ際には笑ったりもして、いい感じだったと思う。
数時間後、Aから電話。
「色々調べてもらった。東病院の院長(外科)は食道ガンの権威
だから、まずその先生の診察を受けて。手配するから」
あ?またケンカになる。勝手な事すんなと。
「海老原先生が一番正確な判断が出来るから。日本でトップだから。
何が一番いい治療法なのかを判断してもらおうよ」
「私は大津先生に診てもらいたいつってんでしょ」
「B(私)、放射線だけにこだわらないで・・・」
またそれかい。
「もしそれでBがどうしても大津先生がいいっていうんなら移れば
いいし」
私ははじめからそう言ってんのに。
最初に外科の先生に診てもらう事に不安を覚えたのだが、オミノ氏
によると、海老原先生は氏が受けた治療に大変理解のある方だそう。
診察を受けても何の問題もない。
安心した。ならばAの言う通り、一番いい治療法を判断してもらおう。
そうする事でAも納得するだろう。
Aに電話で「いいよ」と返事をする。
7月29日(日) Aから電話。
「海老原先生は院長だから、外来に出るのは難しいから、やっぱり
最初は大津先生に診察してもらって」
ケンカする気力失せる。
(注:海老原先生は外来に出ておられます。ご専門は頭頸です)
7月30日(月) **病院の担当医に、紹介状を書いてほしいと頼む。(電話)
了承してもらったが、何だか機嫌が悪そう。つっけんどんというか。
怒っているようにも聞こえた。
父には私が病名を言うことにした。
家族が告知・・・しかも医者抜きで。 ためらいはあったが、ためらっ
てる場合ではない。
夕食前。はい全員集合!(父、母、私)
父にガンであることを告げた。父は別に驚いた様子もなく「うん」と言う。
むしろ私のテンションの高さに笑ってませんか?
「でね、結論から言うと私は千葉へ行くっ」
???の父に、これまでの経過を説明。
「でもどの治療を受けるのか、最終的に決めるのは父ちゃんだから」
すると父は「手術せんでいい方法があるなら、そっちがいい」とアッサリ。
今後についてミーティング。
大津先生の外来日は水曜と金曜。しかしAの話では、今週の金曜は
用事で外来には出ないそうなので、今週・水曜に決定。
初診受付時間に間に合う為には、前日に関東入りしなければならない。
つまり明日。
父も一緒に行くのが一番いいが、あまりに急な話なので仕事の都合が
つかない。当初の予定通り、私一人で行く事になった。
とにかく早く資料だけでもみてもらいたかった。
7月31日(火) 午前中、**病院に資料を取りに行く。
夕方。 熊本空港。 搭乗手続きが終った直後、Aから電話。
「明日、大津先生外来に出ないんだって」
何〜!? 仕方なく搭乗手続きをキャンセル。
しかしその後、東病院に確認したところ、大津先生は外来に出ることの事!
Aに怒りの電話。
どうしてそんな話になったのか、そっちサイドで確認してみろと言うが、何で
今更そんなことする必要が?という返事。誤りもしない。 私は怒鳴りまくった。
私「もういい、もう関わらんで。電話もしてこんで」
A「わかった」
そもそも空港でAから電話を受けた時点で、私が病院に確認すればよかった
のだ。
Aが納得する為とはいえ、任せっきりにしていたことは事実。 大反省。
来週、今度は父と私で行くことにした。
8月5日(日) また問題発生。
私が風呂に入ってる時、Aから電話があったそうで、水曜の診察にAも来ると
いう内容だったらしい。
冗談じゃない。 しかし両親は、私とAの和解を望んでいるらしく、診察に同行
するという話にも前向き。
ちょっと腹立った。
8月7日(火) 夕方。 熊本→羽田
柏のホテルに着いたのは20:30頃だった。
明日の診察に向けミーティング。
8月8日(水) 朝。 国立がんセンター東病院。
初診受付を終え、内科外来のフロアで呼ばれるのを待つ。 と、Aがやって来た。
「ねえ何しに来たの」とAに言う。
「ん?私も話を聞こうと思って」
「大津先生の治療を受けるって決めたんだからね」
「ん、Bがやりたいようにやればいいから」
「私じゃない、本人の意志で決めたんだって」
間に挟まれた父は、ちょっと困ってる様子。
「一緒に診察室に入る気?」
「ん、Bがイヤなんだったら入らないけど」
「いや入っていいから」(父)
「大体もう関わるなって言ったのに、何で来んの」
名前を呼ばれる。 結局Aも診察室に入った。 父がいいと言ってる以上、
私も強くは言えなかった。
<当日の流れ>
大津先生の軽い問診
↓
内視鏡
↓
先生からの本格的な説明
↓
心電図・採血・採尿
↓
終わり
内視鏡室で待っている間。
今後ずっとギャーギャーケンカしていては父の為にならん。
Aに話しかける。 普通に世間話はした。
再び診察室に呼ばれる。
ステージはUとVの中間あたり。いまのところ転移は見当たらないそうだ。
大津先生の説明は丁寧で、内容あるものだった。
手術と化学放射線療法、それぞれのメリット・デメリットも詳しく説明して
いただいた。
そして大津先生の治療を受けることが決定!
その後、血液検査などを受け、食事をし、病院を出たのは夕方だった。
8月9日(木) 羽田→熊本
夕方、熊本・自宅着。
8月10日(金) **病院に資料返却に行く。 **病院に行ったのはこれが最後だった。
8月16日(木) 国立がんセンター東病院から電話。「明日入院できますか?」
早く連絡がきたのは嬉しかったが、いま世間は帰省ラッシュの真最中。
すぐにはチケットが取りづらい。
20日(来週の月曜)に変更してもらった。
飛行機はメチャメチャ高くなっているので、新幹線を利用。 チケット予約、
ホテル予約とバタバタ。
母と私も同行するため3人分の予約だ。
8月19日(日) 早朝5:00 迎えに来た長兄に叩き起こされ、自宅を出発。福岡へ。
7:27 博多駅を出発
病院近くのホテルに宿泊。
8月20日(月) 1回目の入院。
大津先生から治療にあたっての説明があった。
明日から治療開始。
8月21日(火) 抗がん剤投与、放射線照射開始
1st week 抗がん剤+放射線
2nd week 抗がん剤+放射線
3rd week 放射線のみ
8月22日(水) 毎日電話してね〜と言い残し、母と私は新幹線で熊本に帰る。
8月23日(木) しゃっくりが出始める。
8月24日(金) Aに電話した。 訊きたい事があったので。
「大津先生の説明聞いて、どう思った?」
「どう思ったって?」
「いや放射線にあんなに反対してたでしょ、手術がいいって。だから先生の
説明聞いて、その考え方はどうなったのかな と思って」
「ん、手術がいいなんて言ってない」
・・・最初は耳を疑ったが、何度確かめても、Aは「言ってない」を繰り返す。
「手術じゃないと5年生きられないとか言ったたい」
「それはBが興奮してたから、そういう風に解釈しただけ。あの時Bはすごく興
奮して私に言ってきたでしょ」
つまり私が興奮しきっていたから、Aの言ったことを、私のいいように勝手に解
釈した、という事らしい。
何だそれ。
「Aさんは歳だから憶えてないかもしれんけど言ったんだよっ。何で認めんと?
バカじゃない!?」
これってA言うところの興奮状態?
だからってAの言葉を忘れたり、ねじ曲げたりはしません。
「もう治療も始まったんだし、Bも迷ったりしないでさ」
「私は迷ってないって!」
ケンカするつもりじゃなかったのに。
そもそも最初にAに電話したのだって、味方になってくれればと思ったからだ。
とAに言う。
これ以降Aとは話していないが、Aは父の病室にちょくちょく見舞いに来ていた。
父の様子
吐き気の為、食欲が落ちてくる。3食たべられない日もあり。アイスなら入る
ので、そればかり食べていた。
しゃっくりは出たり止まったりを繰り返す。
9月3日(土) 今日から放射線のみの治療。
本来は外来で受けられるのだが、熊本からは無理なので、そのまま入院。
点滴が外れ、気分良。病院の庭に散歩に出る。
9月9日(日) 退院準備のため、私が柏入り。
病室へ行くと、父の頬が少しコケていた。 食欲がないと言っていたので
心配したが、夕食に用意したカップラーメンは汁まで平らげた。
9月10日(月) 退院。
この日は朝からカップラーメン、ソフトクリーム、牛乳、自宅に着いてからも
ソーメンだ何だと食べまくり。
退院1日目にして、食欲は完全に戻った。 が、ノドが痛くて食べられない
時もあり。
9月13日(木) 地元の病院で血液検査。 声のかすれがひどくなってくる。 うがい薬を処方
し てもらう。
9月14日(金)〜 白血球:900 白血球を増やす注射をする。
9月21日(金) かすれていた父の声が回復。 嬉しくて方々に連絡しまくる。
9月25日頃まで、ほぼ毎日地元の病院に行く。
9月28日(金) 2回目の入院。 私が同行。
9:00 熊本→羽田
東京駅から高速バスで国立がんセンターへ
10月1日(月) 抗がん剤+放射線、開始。 前回と同様。
内視鏡検査。 が、食道が狭くなっているため内視鏡が入っていかず断念。
放射線の影響だそうだ。
治療の方は順調との事。ホッとする。
10月3日(水) 私、熊本へ帰る。
10月10日(水) 母、柏入り。 昼、東病院に到着。 退院までいる予定。
昼食にと母が持参したソーメンセットを父たいらげる。
10月22日(月) 退院。
前回と違い、最後まで食欲が落ちなかった。
熊本にいる間は、地元の病院で定期的に検査。
食欲かなり有り。
11月13日(火) 入院前日、柏入り。
今回は私が同行。 退院までいる予定。
11月14日(水) 3回目の入院。 抗がん剤のみの治療。
内視鏡検査。 内視鏡は入ったが、少し食道が狭くなっている。今後様子を
見ながら、場合によっては食道をひろげる治療をするかも。
前回に比べ食欲はかなり落ちている。
しゃっくりも相変わらずだが、この頃になると、飴をなめたり姿勢を変えたりし
て止める技も体得。
11月19日(月) 退院
食欲はすぐに戻るが、鼻をかむと鼻血が出るようになった。
熊本の病院で定期的に検査。
12月20日(火) 入院前日。 母が同行して柏入り。
12月21日(水) 4回目の入院。 治療は前回と同様。
既に食欲なし。
12月24日(月) 私、柏入り。国立がんセンター東病院へ直行。
12月25日(火) 夕方、病室に来られた大津先生から、ガンは消えましたとのお言葉をいただく!
12月26日(水) 退院。
退院して数日後、鼻血が出始める。普通にしていてもタラタラ出てくるので、ティッシュが手放せない。
食欲なし。
1月半ば頃、ようやく鼻血が止まる。 食欲も徐々に回復。
1月25日(金) 検査の為、東病院へ
2月1日(金) 前回の検査結果が出る為、再び東病院へ
結果は問題なし!
父が治療を終えるまでの半年間、本当に色々なことがありました。
私の人生の中で、こんなに悩みまくり、怒りまくったことはありませんでしたし
、何よりこれほど人に感謝したことはありませんでした。
色々な意味で、このサイトとの出会いに感謝しています。
レポートにも書きました通り、父が東病院で治療を受けるまでには多くの難関が
ありました。
その度にオミノ氏、Y氏には数えきれないくらいのアドバイスと力強い励ましを
いただき、その言葉にどれほど救われたか計り知れません。お二人の存在がなけ
れば、東病院に行くことすら幻でした。
ここに改めてお礼申しあげます。
大津先生をはじめ、東病院スタッフ、ナースの方々。心温かい対応、看護、本当
にありがとうございました。
熊本での検査をお願いした先生、本当にお世話になりました。私達にとって先生
は大きな支えでした。
励まし支えてくれた皆さん、本当にありがとうごさいました。
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