| 68歳ステージIII、男性 |
1.告知 すでに10年以上前から、胸より上方、顎にかけて、鈍い痛みを感じ、苦しくなるときがあった。それが年に数回ある。痛みはやがて静まるので、姿勢などの関係かと思い、放置してきた。その他はいたって健康で、医者の世話になることはまず考えられなかった。しかし、2004年2月の深夜に苦しくなったときは、さすがに医者嫌いの私も町のクリニックを訪問した。インターネットによると、痛みが歯茎まで湧き上がってくるようであれば「狭心症」「心筋梗塞」の疑いがあるという。しかし、医師は腫瘍マーカーなど調べ、結局「異常なし」ということになった。ではあの痛みは何でしょう、と聞くと「食道のしゃっくり、痙攣かもしれません。年齢とともによくあります」という。対処方法は、水など飲んで治ったりするのだそうだ。実際、そのようにやってみたら治った。しかし、2004年9月頃、今度は食事のときの飲み込みで鳩尾のあたりに痛みを感じはじめた。インターネットで調べると「食道炎」かと思われる。再び診断してもらったら、やはり軽い食道炎のようだ、とガスターテンのような飲み薬と漢方薬をくれた。これがよく効いて、1週間もすると痛みは感じなくなったのだが、薬が切れて数日するとまた痛みを感じ始めた。そこで12月、「内視鏡で調べてほしい」と申し出た。他病院の外科部長が来て調べてくれたのは12月18日、結果は12月25日に判明した。「生検の結果、悪性ですね。食道の真ん中よりちょっと下側に、5cmぐらいの膨らみがあります。」写真には潰瘍部分の周囲がやや腫れている患部があった。私の額から冷や汗が出るのがわかる。「どうしたらいいんでしょうか」「手術ですね」「どんな?」「ここと、ここと、ここを、こう切って・・・」と具体的に説明してくれるけれど、私は冷や汗だけでなく、しだいに下痢気味になってきた。覚悟はしていたけれど、体が反応する。「手術できるからまだいいんですよ」と看護婦さんが言ってくれる。しかし、癌をいきなり受け入れることは体ができない。帰宅して妻に話し、その日、ふたたび妻とクリニックを訪れ、やはり手術を勧められた。しかし、その医師が私の血液検査までして「なんでもない」と診断したのは2月ではないか。あれから10ヶ月もたってしまった。いまさら手術なんて。とにかく、よく考えて、東京なり何処なり、それなりの水準の病院を探し、ふたたび相談したい、と15分ぐらいで病院を出た。薬局でいつもの薬を所望した。悪夢の一日だった。 この日から喫煙、飲酒は妻の叱責もあり厳禁となった。とくに食道癌は酒類とタバコの両方を嗜む人に多いという。あるいは、そういう人がよく入院して来るということを、後によく聞かされた。 2.国立がんセンター東病院へ 知人に癌研究会付属病院(癌研病院)を紹介してもらった。年度末なので日にちはないが、年内に一度会ってくれる医師を紹介してくれた。この病院は3月から有明へ移転する計画がある。外科のその医師の説明を聞くと、町のクリニックの説明と同じで、手術は3カ所を切るという。とりあえず年明けは6日過ぎから開院になるので、そのときCTなどで詳しく調べることになった。それまでの間、私はインターネットや本などで癌のことを毎日調べた。そんな時に出会ったのが「ガン病棟からの脱出」だった。衝撃だった。脇目もふらずにサイトの体験談を読ませていただいた。東病院といえば千葉県である。県外で、しかも夫婦共に車の免許を持たない私には、最初は不安があった。しかし、「日本全国どこでもよい。完治するのであれば、どんなに遠くてもいい」と妻が言ってくれた。娘、息子たちも賛同したので、私は心強かった。 ある日、池袋にあるクリニックの医師にセカンド・オピニオンを願ったことがある。その医師は「ホリスティック医療」関係のトップの方で、「とりあえずは医師の指示に従った方がよい」というのが結論であった。このほか、食事療法などで成果を上げているという団体にも連絡し、電話で相談したところ、やはり同じような回答であった。双方とも、手術ができないときに相談するところ、という印象であった。 さて、癌研病院のCT、内視鏡の結果は「ステージTまたはU」ということであった。リンパ節転移があるかもしれない部分があるので「または」となったのだ。わずかにホッとした。しかし、私は手術を拒否し、放射線化学療法で治療したい、国立がんセンター東病院に紹介してほしいと願い出た。「では、大津先生でも紹介しましょうか」とあっさりいうのでドキッとした。大津敦先生は「ガン病棟からの脱出」で特に評価されている先生であり、また柳美里の「命」でも「放射線化学療法の第一人者」として紹介されている。放射線化学療法の東病院、中でも大津先生、というのはかなり知られているようで、私の心はますます東病院の、中でも大津敦先生をめざすこととなる。 3.東病院で 1月17日(月)に電車とバスを乗り継ぎ、3時間ほどかけて東病院にたどり着く。1階にある消化器科の大津先生は予想と違って、声は小さめ、お話はきわめて事務的、体型は細めで迫力がなかった。先生は癌研病院から持ち込んだ資料をもとに「手術」と「放射線化学療法」の2つの方法があることをメモしながら説明してくださった。すでに心が決まっていた私は「放射線化学療法で」とお願いした。ステージはUまたはV、と言われ、癌研より一段悪くなったのが少しショックだった。今後の進め方としては、1月31日に入院し、その1週間後から「療法」は本格化する。放射線は2月7日(月)開始、土日を除く毎日1回、28回の照射。食道全体に23回、最後に患部へ5回の放射線を当てるそうだ。これと並行して、抗ガン剤の投与。シスプラチンと5−FUの2種である。このほか、採血、CTと放射線について説明(二瓶先生)をうけて終了した。 1月20日(木)は通院で内視鏡検査。同じく1月28日(金)はCT検査。ただそれだけで帰宅した。 4.入院 入院体験は初めてである。1月31日(月)、朝7時半に長男の車で妻と3人家を出る。「今までは皆のことを心配する立場だったけど、今日からは皆に俺のことを心配してもらうから」と冗談まじりに、しかし本気で私は言った。10時頃、病院着。ボランティアの方に案内されて、5階、4人部屋のベッドに案内される。カーテンで仕切られて、互いの様子はわからないし、交流もあまりなさそうな雰囲気。若い看護師さんが多く、やさしく、丁寧な対応には心が和んだ。 ここで主治医が大津先生ではないことに抗議をして、変更してもらった。大津先生がふくまれるスタッフということで、主治医は浜本先生であった。 1日目からさっそくバリュームを飲んで食道、胃のレントゲン検査。思いっきり空気を含ませてバリュームを飲み込み、激しく体を揺すったり、全身を回転させたり、ちょっと苦しい思いをした。このレントゲン写真を基にしてリニアック室(放射線室)で行う放射線の照射の方向などを確定する。このほか採血、胸部レントゲン写真(1枚)を撮影した。 2日目の朝からスタッフの先生たちが巡回して様子を見に来てくれた。主治医の浜本先生や大津先生も一緒にお見えになった。看護師によると大津先生は、外来と病院運営、研究を主にされていて、現在は主治医等の患者に直接関わる仕事はしていないようである。カンファレンスなどの会議には出席して、間接的に関わっているようだ。そういう意味では、看護師といい、医師といい、若いスタッフが活躍している。若いと思うのは、私が若くないからかもしれない。30代、40代の医師が多いように思った。入院2日目はとくにこれといったことはなかった。ただ、うれしいことに、大津先生、浜本先生から「詳しく調べた結果、ステージはUAで、リンパ節転移はない」という報告を受けたことだった。 3日目は差し歯の調子が悪く、病院内の歯医者で矯正してもらった。この日の内容はそれだけで、あとは読書などして過ごした。妻と長男がノートパソコンを購入してくれたけれど、インターネットが使えず、通信ができなかったのは残念だった。 4日目、5日目はリニアック室でレントゲン写真をもとに、私の胸部体表に線引きをし、またその微調整をした。今後、この体表線を基本に放射線照射を行う。いよいよ「放射線化学療法」の気分になってきた。 翌日から土日で、外泊も可能だったが、自宅も遠いし、入院のまま、TVや読書などに専念した 5.放射線化学療法はじまる 〜 抗ガン剤第1回戦 2月7日(月)、いよいよ「放射線化学療法」第1日目がはじまった。午前、抗ガン剤(5−FU)点滴開始。午後、抗ガン剤(シスプラチン)点滴。これと並行して生理食塩水、吐き気止め、利尿作用、の各点滴をとっかえひっかえ投与された。 前日からオミノさんの経験をまねて「お〜い、お茶」をグビグビ飲んだためか、深夜、早朝、尿が出る出る。ほぼ1〜2時間に1回のペースで量もけっこう多かった。尿は漏らさずビーカーにとって、尿量測定器に入れる。だから1日何リットル出たかがわかる。測定結果はナースセンターに送信されデータ化される。 午前11時、リニアック室第2室で第1回放射線照射。上半身裸で細長いベッドに横たわる。スタッフの指示にしたがって態勢を微調整すると、やがてスタッフはガラス窓の向こうの隣室へ移動して、窓から私を見ながら「息を吸って、はい、そのまま」というと、「ピー」という音がつづいて照射がはじまる。上半身大の照射台をアームで私の胸部の真上を半周する。時間は1分弱であった。リニアック室に入って出るまでの時間は着替えを含めて10分もかからなかった。どういうわけか、部屋には「ワルツ」や「琴」の音がつねに流れている。放射線スタッフは20代から30代の若い医師が多いように見えた。挨拶が丁寧で、私の態勢を微調整するときに「すみません」を連発するので、妙に癒しを感じた。第1日目はそれだけだったので、あとはのんびりテレビを見たり、パソコンやったり、読書などした。今までと違うのは移動するときに点滴台を共にすることであった。しかし、これぐらいなら苦にはならなかった。 夜、シスプラチン終了。 食事、血圧、体重はいつものとおり。夕方から夜にかけて「お〜い、お茶」を4リットル飲む。すると深夜、早朝にかけて30分〜1時間ごとに尿が出た。それも少量ではないから眠れたものではない。それなのに便は出なかった。 2日目、看護師さんが、昨日の尿は7リットル出た、とおどろいていた。そういえば、お茶を飲み過ぎて気持ちが悪い。吐き気がし始める。もともと中学生の頃から乗り物酔いなど、吐き気に弱く、ひどいときはバスの後ろを通っただけで数時間気持ちが悪かったことがあるくらいだ。今ではだいぶ治ったが、車の中で文字を見ると、とたんに吐き気がするのは昔と変わらない。 トイレやリニアック室に行くときなど、足下が少しながらふらふらし始める。2日目は朝食が100%なのに、昼食は0%、夕食は40%しか食べられなかった。これはお茶の飲み過ぎではなかったのだ。抗ガン剤の「効果」だ。吐き気に弱い私は、この日を境に食事との縁が悪くなった。やることといえば、前日と同じ点滴と放射線だけだったが、ベッドに横たわることが多くなった。血圧が90まで下がったのも初めてだった。 3、4日目は最悪で、ベッドにいても頭の中がグルグルし、意味不明の浅い夢を見続けた。食事は昼食の一部(サラダ一皿、イチゴ三個、妻が買ってきたトコロテン)だけで、朝食・夕食は食べられなかった。吐いても何も出てこない。体温は平常だが、体重が少しずつ減少しはじめ、便は出ず、血圧も下がり気味だった。 5日目も寝たきり。移動はトイレと洗面のみで、ふらふらと幽霊のように移動した。午後、5−FUが終了。食事量は15%程度。体温は平常。ものを記録する気力なし。 抗ガン剤投与が一端終了して、土日はだいぶ回復した。それでも酔いは残り、食事は40%程度。そのうち、酔いに代わって頭痛がしてきた。夜は高熱を発したときのようなグルグルした夢がつづいた。下剤を前夜に飲んで、5日目にしてようやく便通があった。以上が抗ガン剤第1回戦であった 6.一端退院して通院治療2月15日(火)一端退院した。3月7日(月)に再入院して抗ガン剤を点滴するまで、通院して放射線を照射する。しかし自宅が遠いため、浜松町あたりのビジネスホテルから妻と二人で通った。東病院の周辺にもホテルはあるようだが、できるだけ病院から離れたかった。 体重がずいぶん減ってきた。血圧も低い。それに放射線照射による食道患部の痛みが激しくなって、食事がほとんどすすまなくなった。病院からもらった白シロップ液(ポンタールSyrシロップ)を食後に飲んでも、効果なし。熱い物、冷たい物、刺激物など一切ダメ。水さえも痛みを感じるようになった。自分の顔を蛍光灯下の鏡で見ると、頬がこけて、顔に大きな「ソ」の字が深く彫り込まれた気がした。体重が68.5kgから60kgに激減していた。 7.再入院 3月7日(月)に再入院。まず採血をしたところ、すぐに看護師さんの「脱水ですね」の声が聞こえた。かなり良くないようである。そのため、水分点滴からはじめて、2回目の抗ガン剤投与を9日からはじめた。5−FUは前回と同量にしたが、シスプラチンの量は半分にしたという。 情けないというべきか、「脱水」と聞いて俄然、闘志がわいてきた。今まで薬局の指示により食後に飲んでいた白シロップ液(ポンタール)は、実際は食前に飲んだ方が効果ある、と看護師さんから教えられた。どうもおかしいとは思っていた。さらに緑色のアルロイドG液を併用した。また、シスプラチンの量を半分にしたからか、食べることへの意欲も相俟って、食事量が増えた。昼90%、夜80%、翌日の10日には100%とつづき、バナナなど捕食までたいらげるようになった。「吐き気」への恐怖感が消えた? といっても、食道通過時の痛みが消えたわけではない。時間をかけて噛み砕き、慎重に飲み込んでいるのである。検診でも順調に進んでいるとの話であった。それでも体調を気遣って、2回目4日間の抗ガン剤投与が終了しても退院はせず、放射線照射だけの入院を22日までつづけた。 22日(月)は28回の放射線照射がいよいよ終了となる日である。と同時に「癌」は消えているか、どの程度消えているかが気になる。癌細胞は一つあっても危険だ。放射線終了後は4月と5月に1回ずつある抗ガン剤投与が最後の勝負となる。放射線終了の3月22日に退院し、自宅療養に入る。次回入院(抗ガン剤投与3回目)は4月15日からの予定となった。 29日、通院検診。採血の結果、白血球数3800、まあまあよくなっている。実際、体調は回復に向かっていた。自宅療養中もよく散歩した。食欲も旺盛になってきた。飲み込みの調子が良くなってきたのだ。3月31日にCT検査。4月9日、家族で花見に行った。まぶしい景色の中を、よく歩き、楽しんだ。 4月15日(金)抗ガン剤投与のための再々入院。病院へ向かう途中、隅田川堤防の桜並木が高速道路を走るバスの中から見えた。この桜並木の花が咲く日に私はどうなっているかと、よく思ったものだった。満開の桜並木の長い列が、隅田川の光に反射していた。 8.癌細胞が消えていない可能性? 4月15日は、入院すると間もなく、超音波内視鏡による検査となった。看護師がていねいに車椅子に私を乗せ、検査室へ運んでくれた。超音波内視鏡は最近の医療技術と聞いている。普通の内視鏡よりやや太く、内視鏡よりも精密にデータをとることができる。これは内視鏡よりも苦しかった。体感で思うのだが、食道の患部の辺りでバルーンを膨らませ、液を溜めて音波を計測しているようであった。生検も数回行われ、その都度、涙目になった。終わってゲホーッと嘔吐したが、何も出なかった。検査のために、朝から何も食べていないのだ。 ところで、今、超音波内視鏡検査を行うというのはどういう意味があるか考えさせられる。癌細胞が残っているのか、あるいは微小な癌細胞を内視鏡手術で剥がしてしまうというのか。2時間ほどして浜本先生から相談室へ呼び出しがあった。 妻と二人で話を聞く。「ガン細胞が消えていない可能性がある」との浜本先生の指摘に、聞きながら体がしびれ、額に冷や汗を感じた。以下、私なりに解釈した浜本先生の説明をまとめる。 @患部のあたりの潰瘍が入院前と大きさの変化がない。今までのデータから判断すると、この事実は、癌細胞が消えていない可能性が高いことを意味する。(写真も見せてくれた。患部はかなり荒れている。) Aしかし、潰瘍とその周辺の細胞を生検で見ても、癌細胞はなかった。 Bということは、潰瘍の奥(下)に存在する可能性が高い。深い場所なので生検で調べることができず、超音波でも(細胞が微細すぎて?)わからない。この場合に、ガン細胞があるか、ないか、は世界的な医学技術を持ってしても知ることはできない。ある、という「可能性」だけがある。 C深い場所にガン細胞がある場合、レーザーで焼き切る(PDT)ことは食道をダメにするのでできない。 D今後の方向として、 (1)手術・・・ただし、放射線治療後なので、そうでない人よりもリスクが高い。 ※「放射線治療後の手術はできない」と聞いていたので、問うと「今は、私たちはそのような立場をとっていません」ということであった。 (2)様子見・・・手術しないで、抗ガン剤等で治療しながら様子を見る。しかし、癌が大きくなる可能性は高く、その場合は時期的に手術もできなくなる可能性が大きい。 9.手術か、様子見か 浜本先生から手術を進められ、外科の西村先生と大幸先生を紹介していただいた。東病院は放射線化学療法で治療する患者が多く、それだけに、癌が消えなかったケースも他病院に比して多い。両先生はこれに外科的に対処する実践を数多くやられてきているという。大幸先生のお話では、私のようなステージの場合、放射線化学療法をやっていない患者の場合の手術失敗例は0〜1%なのに対し、放射線化学療法を受けた患者の場合は、放射線による内部の傷みがあるので失敗例は10〜15%であるという。浜本先生は「ガン細胞から解放されるのはホントに生やさしくありません。今なら間に合います。手術をする時期としてチャンスなのです」と、スタッフのカンファレンスの結果も含めて、手術の必要性を強くすすめて下さる。手術は1ヶ月後になるらしい。 こうして、事態は私にとっては最悪のケースとなった。浜本先生によると、3年前ぐらい前までは、私のような場合、手術はしなかったらしい。最近は可能になった、ということであった。そういえば、インターネットによると、最近は欧米でも、はじめに放射線化学療法を行い、その後に手術をする、という対処方法が増えてきているという情報もある。放射線化学療法を行った分だけ、ガン細胞が退縮しているはずだから、体が大丈夫でさえあれば、今がチャンスであるというのは頷ける。 私は浜本先生に一つだけお願いした。「もし手術を受けることになったとしても、1チャンスだけほしい。2〜3週間後にもう一度内視鏡検査を行い、患部の変化がなかったらあきらめますので」と、藁にもすがる思いであった。放射線化学療法は後からジワジワ効果を現す、というケースを読んだことがあった。3週間後に患部の潰瘍が消えていることを密かに祈っていた。「いいですよ」と浜本先生は言った。私の心境は、昨年12月25日にはじめて告知されたときに似て、虚脱感と心の重さに全身を縛られた。ゼロからの出発に思える。夢であってほしい。 10.手術を前にして 4月15日は入院しないで翌日からの土日を自宅外泊とし、19日に退院した。抗ガン剤は身体を弱めるため、手術前はこれ以上投与できない。だから、抗ガン剤入院の意味がなくなったのであった。 退院の日、浜本先生に現段階では手術がベターである理由をさらに詳しくお聞きすることができた。手術のための入院は5月10日、手術は5月16日の予定。しかし、私はまだ「手術します」とは応えていなかった。だから、手術も仮予約であった。浜本先生にはわがままだったかもしれないが、先生も「3週間よく考えて判断してほしい」と言ってくださった。 入院までの24日間は、食道摘出手術を前にして、私にとっては貴重な日々であった。今後どのようにすべきか。手術をすべきか、放射線化学療法の結果を様子見するか。家族は手術を臨んだ。しかし、私には、手術後のQOL(生活の質)の低下で、面倒な人生になるのではないかという不安があった。悩んだ末に、オミノさんの「ガン病棟からの脱出」をもう一度読んでみた。その中で「特派員報告」氏が「放射線化学療法のあとで、手術をすすめることが多くなった」として、それは詐欺だ、と述べた部分に目が止まり、オミノさんの考えを強烈に知りたくなった。入退院の繰り返しで、インターネットに接する機会も少なかったし、オミノさんへのメールが「論議する」「報告する」ものであると思っていた私は、「相談」というメールをそれまで送っていなかった。しかし、今は放射線化学療法の最悪ケースの問題であるから、メールをする意味はあると思った。オミノさんにメールをすると、「なぜ、もっと早く連絡してくれなかったのか・・・」とかなり怒っておられ、さんざん「ガン病棟からの脱出」を参考にしていた私は、さもありなん、と「申し訳ありませんでした」の謝罪のメールを返信。こうしてオミノさんにも見離された、との思いで、気が滅入ってしまった。 ところが、翌日、オミノさんからメールがあった。「特派員氏に連絡が取れた」とのこと。しかも、特派員氏の私へのメールを添付してくださった。あきらめていた私は、オミノさんが私を見離さず、裏で手配してくださっていたことに感動した。ほんとにうれしかった。特派員氏の内容は、東病院の浜本先生、大津先生たちへの信頼を確信させてくれるものであった。事ここに至って、私は「手術で行こう」と決めた。 手術前の残された日々を大切に、体力づくりや読書、身の回りの整理、などをする。近くの、町を一望できる小高い山の展望台にもよく登った。食道の患部の痛みはほとんどなくなって、孫たち家族と「しゃぶしゃぶ」を食べに行ったときの、そのおいしかったこと、楽しかったこと。秩父の芝桜見物、草津温泉などにも行った。これらはすべて癌がもたらしたもので、罹病以前にはそんな心の余裕も時間もなかった。手術、と決めたら、なんだか気持ちがすっきりしてきた。しかし一方では、患部の完治とガン細胞の消滅を願っていた。 11.手術入院 5月10日(火)、入院の前に内視鏡検査をした。浜本先生の診断では、潰瘍は小さくなったとはいえ、やはり消えていない、とのことであった。予想はしていたけれど、残念の思いは深い。病院の都合で入院は明日からとなった。今日は東京で宿泊する。妻と映画を見た。 5月11日(水)に6階に入院して採血等を行った。体調はよく、食欲もある。今日からは術後のための呼吸練習が主となる。術後は痰がよく出る。しかし、肺が弱まり、呼吸が浅くなってくるから、痰をうまく出すように道具(インスピレックス、ネプライザー)を使って呼吸練習をするのである。痰を吐き出すときにうまくやらないと傷が痛むのである。4種類の練習を1日に4〜5セット行う。その間、スタッフの西村、大幸、矢野の各先生や看護師さんが、入れ替わり様子見をしてくださった。翌日12日は、矢野先生によって鎖骨近くから点滴チューブ(IVH)を14cm入れた。術前の身体調整のための点滴と、術後に食事がとれないから、栄養を点滴するためだ。痛くも痒くもなかった。このときから再び点滴台を友とした。最初の点滴袋には「ソリターT3号G」とあり、術前の身体調整をするらしい。夕食後に麻酔の望月先生が麻酔の説明に来てくださった。とても若く優しい30歳代の先生に見えた。 13日(金)、西村先生から手術についての詳しい説明があった。内容は厳しいものであった。たとえば、手術のリスクが放射線化学療法を行っていない場合は0〜1%であるが、行っていた場合は10〜15%で、10倍以上である。「10倍以上」を強調されたのは先に大幸先生が説明してくださったときより厳しい。また、合併症の話、神経を切った場合、輸血の場合、心肺への負担、心不全のこと、その他、説明内容は同席した妻と私に少しの安心も与えてはくれなかった。つまり、「手術は大丈夫」という感触は微塵もなかった。妻は思わず「希望をもってこの病院を選びました。でも、説明を聞くと、不安ばかり深まります」と言った。西村先生は「昔とちがって、今は客観的に、事実や実際をはっきり言うことになっているんですよ」と応える。終わり際に和らいだ表情で「がんばりましょう」と言ってくださったことが、妻と私には唯一のホッとする言葉だった。厳しいが、しっかりした先生という印象を受けた。 12.食道癌の手術方法 食道癌の手術は一般に身体の3カ所を切開する。@鳩尾の上部から臍の辺りまで A首の下部、鎖骨の上部を横に B右脇腹を肩胛骨の下まで回り込むように皮膚を切る。この3カ所を切って、背骨の内側にある食道管に迫るのである。西村先生から頂いた資料によると、私の手術は「三期分割胸壁前食道・胃吻合術」といい、第1期は腹腔内リンパ節郭清を中心に、第2期は食道切除(私の場合は、上部三分の一を残した食道亜全摘)、第3期は胃を持ち上げ、胸壁前を通して、上部食道と吻合する、というもので、これを8〜10時間で行う。 胃を持ち上げるとき、胸部前を通すほかに、@胸骨のすぐ裏側を通す A背骨の近隣(もともと食道があった場所)を通す場合がある。私の場合のような、胸部前がもっとも安全といわれる。もし吻合部に障害が生じたり、その他の問題があったりした場合に、対処しやすいからである。特に「放射線化学療法」後の手術の場合は、胸部前とするのが通例である。なぜなら、放射線によって気管が傷み、事故が起こる確率が高くなっているからである。しかし、見栄えはよくない。見栄えだけでなく、あとでわかるように、飲み込み時の困った問題がある。 術後のQOLについて、あれこれ看護師さんに聞くことが出来た。たとえば、胸の前に胃がくるから膨れる。たしかに見栄えは悪くなるが、衣服によって隠すことが出来る。あるいは、胸に衝撃があった場合、危険ではないか、と訊くと、柔らかいビニール管の場合よりも安全のはず、という。また、吻合部分の肉が盛り上がって、飲み込みがきつく、食べ物が通らなくなる場合もあるが、治療法があるようだ。飲み込みは、柔らかいお粥から、しだいに普通のご飯に移行していく。普通、2〜3週間で退院できるらしい。 夕方、看護師さんが、4日前に私と同じ条件の方が手術して、今日はもう歩いている、という情報をくださった。 夜、矢野先生がいらっしゃって、西村先生の厳しい説明に対してどう思っているかを聞かれた。私は、それだけ手術というのは神妙なもので、西村先生もいたずらに安心感をあたえるような説明はできないでしょう、というような応えをした。矢野先生も、85〜90%の成功率があるといっても、失敗した人にとっては0%ですからね、という。そういう意味では、成功率や生存率は、率そのものに頼っているわけにいかない厳しい現実があるわけである。それは、私自身がステージUAなのに、放射線化学療法で完治しえなかったことが一つの例である。手術に対しては、なおのこと甘い態度で臨むわけにはいかないのだ。矢野先生とは「がんばっていきましょう」と別れた。この時点で、スタッフの先生たちは、まだ私が手術を受ける覚悟になっていないと思っていたようである。
5月14日(土)、手術受け入れの覚悟はより強くなった。手術に備え、妻が浴衣やT字帯(褌)、タオル、などに記名し、紙袋にまとめた。今日から食事を減らし、手術前日は絶食、その午後に下剤を飲んで、夕方に下痢。読書、TV、簡単な詰め将棋に暮れる。重い気持ちはない。この夜は6時間ぐらいの睡眠だった。 5月16日(月)、いよいよ当日だ。朝、看護師さんが体温測定、採血、そして浣腸。昨夜飲んだ下剤のため、すでに腹がグルグルしている。トイレではほとんど水状の便だった。体重61.8kg。昨年の癌告知前の平常体重より7kg減少している。 9時ごろ、いよいよ手術だ。浴衣、T字帯に着替え、ストレッチャーに乗せられて院内を移動し、4階の手術室に至る。まず、術後の痛みを和らげるために、硬膜外麻酔を行った。硬膜外麻酔は、脊髄に直接麻酔を打つわけに行かないので、脊髄を包んでいる膜の中に麻酔液を注入し、脊髄を麻酔液に浮かせるようにして麻酔を効かせる、というものらしい。術後の傷の痛みにも効果を発揮する。そこで、身体を横向きにし、うずくまってエビのような体型となった。痛み止めの注射をしたあと、背骨に麻酔の管を入れる。その後、再び上を向くと、麻酔の先生が「沼田さん、眠くなりましたか?」と聞いてきた。「少しだけ・・・」。すると、1秒もしないうちに「沼田さん、終わりましたよ」という声。何が終わったのだろう? えっ!? 手術が終わった! あっという間もなかった。この間、実際は8時間以上経過していた。身体は痛くも痒くもなかった。手術を受けたという感覚は全くないのは不思議だった。 間もなく、ICU室(集中治療室)へ移動した。スタッフたちに囲まれて移動する格好は、(不謹慎かもしれないが)まるでお祭りのようだ。きっと執刀医の先生やスタッフの方々は、何か大きな仕事が終わったという安堵感があったに違いなく、その息づかいが私に伝わっているのだろう。しかし、私にとって手術は、1秒の間もなかった、というのが実感だったのである。廊下で前後10時間も待っていた妻、娘、息子たちが私を囲んだ。冗談も言えるほど、意識はかなりはっきりしていたと思う。しかし、ここからの一週間が最も重要で危険なときなのだった。
ICU室には5〜6台ほどのベッドの所々に患者が横たわっていた。医療機器の音が絶えず、けっこう耳障りだ。看護師や医師は快活で、対応が素早く、安心していられた。どこの病院でもそうらしいが、外科のスタッフの元気の良さを感じる。看護師さんたちが休みなく動き回っていた。 痛み止め麻酔がつづいている。身体の様子がよくわからない。傷口用のガーゼが上半身を3カ所覆っていて、たくさんのチューブが身体から出ている。傷口からの血液・体液漏れ用の管(6本ぐらい)とその先に蓄液用のパック(左右に各3個)、尿管、栄養点滴チューブ、呼吸器、胃管、硬膜外麻酔用のチューブが背中から1本、2日後に胸腔ドレーン(2本)、これだけでも13本。これがスパゲッティ状態というやつだ。このほか、フロートロン着用(足揉み)。 看護師さんの屈託ない、てきぱきとした優しい対応もあって、私にとって不満なことはなかった。とにかく、こうしてジッとしていればいいのだ。とりあえずは一週間の我慢で、あとは何とかなるだろう。横になって寝たまま最初の一日が終わった。痛くて我慢できないことは一つもなかった。 17日、看護師さんが蓄液用のパックの一つに異常を見つけた。そのパックだけ量が多く、皮下出血とわかる。西村先生の素早い対応で再手術となった。一度切った場所をもう一度切るなんて、ショックだった。しかし、急がないと危険である。午後、私は再度手術室に運ばれた。 「沼田さん、眠くなりましたか?」「まだです」・・・「終わりましたよ」と、今度も全く手術の実感がない。ところが、どうしたことだろう、呼吸ができない、声が出ない。たくさんのスタッフが上から私の顔をのぞき込んでいるのがわかる。私は口を開け、手で「呼吸が出来ない」「声が出ない」という合図をした。気が遠くへ吸い込まれそうだった。すぐに治ったのは、痰が取り除かれたからである。呼吸できると、とたんに生きた心地がしたものだ。「どうも、ありがとうございましたあ!」 私は、まるで運動部の生徒のように声を張り上げて礼を言った。スタッフの先生たちは「元気が良いなあ」と笑っていた。手術は1時間余で終了した。しかし、痛くも痒くもない。これなら何度やっても、どうってことない、と思ってしまう。スタッフはこの緊急手術のために昼食が出来なかった。 18日、胸腔に溜まる水を出すために、脇腹に穴を開け、チューブを入れて出口をつくる(胸腔ドレーン)。穴を開けるとき、局部麻酔を使用するので、これも痛くも痒くもない。苦しかったのは、この日から始まった気管支鏡による痰の吸い取りであった。手術のためにいくらか汚れた肺の痰を早めに取らないと、肺炎を併発する可能性がある。気管支鏡は内視鏡に似ているが、食道ではなく肺に入れるのである。医師はモニターを見ながら、かなり奥まで入れる。苦しく咳き込んでしまう。ところが、身体には手術したばかりの大きな傷があるわけだから、咳き込んだときの苦痛は涙ものである。この気管支鏡による痰の吸い取りは10分ぐらいかかるが、体感時間はもっと長い。4日間、朝と夜に行われた。矢野先生には特に念入りに取っていただいて、おかげで退院後の検診でも「きれいな肺」と言われた。矢野先生とは、手術前のある夜に「がんばりましょう」と誓い合ったのを覚えている。そのことがいつも念頭にあった。 午後、6階の個室に移動した。とにかく、こうして3日目を迎えているのだ。時間が過ぎていくことだけを楽しみにした。そして、時間は必ず過ぎるのだ。 ところが、この日の夜は未体験の地獄だった。身体が汗っぽく、じめじめしている。浴衣を開くと、今度はちょっと寒い。何か不安定な、そんな夜だった。気がついたのは、時計が見あたらなかったことと、テレビのプリペイドカードが時間切れになっていたことだった。眠剤が嫌いな私は、それを断ったために、いよいよ深夜になってもちっとも眠くならなかった。暗い部屋で、ただジッとしているだけだ。何時かもわからない。テレビもつかない。看護師さんを呼んで時間を確かめるけれど、不思議なことに、ちっとも進んでいない。暗い個室の中で、時間の進行を確認できないまま、冴えた目でただジッと壁を見ているだけだ。身体がじとじと湿っぽい。しかも酸素吸入器をはじめ、たくさんのチューブに縛られて動けない。耐えきれずに、大声を出しそうになったことを覚えている。外の風景が見渡せる明るさになるまで、時間のなんと長かったことか。 19日、再び首周りの切り傷に皮下出血。一昨日同様に1時間余の緊急手術を行って、再びICU室へ。3度目の手術のためか、私自身に手術への抵抗感はなかった。看護師さんたちとも明るい会話が出来ていたと思う。しかし、気管支鏡の痰取りは相変わらず行われ、これはやはり苦痛だった。それともう一つ痛みを感じるのは胃管である。胃管は、胃と残された食堂の吻合部分から鼻を通してチューブを外に出している。吻合部分の体液や出血を外へ出すのだ。チューブの圧迫で、次第に喉の痛みを感じ、飲み込みの動きをすると特に痛い。これにはまいった。 20日、ICU室で直立歩行練習を行った。立ってみるだけでも、立つことへの緊張感がある。とくにトラブルなく完了。 21日(土)、朝、土曜日にもかかわらず矢野先生が来てくださり、最後の気管支鏡痰取りを行った。今明日は他の先生たちはお休みで、私もベッドでジッとしていることが多かった。ICU室の看護師さんも人数が少なめのようだ。胃管のために喉が痛い。夜に眠剤点滴。 22日(日)、看護師さんの誘導により、軽い歩行練習を行う。ICU室を一回りし、廊下にまで出てみた。冒険している感覚だ。とくに気分が悪くなることはなかった。この夜も眠剤を点滴。 23日、いよいよ尿管を抜き、ICU室から個室へ移る。以後は個室のトイレまで歩き、自力排尿で蓄尿し、排尿量を測定する。また、体液漏れもなく、皮下出血の危険もなくなって、皮下の液漏れ用パックとチューブも取り去ったから、身体がすっきりしてきた。まだ栄養関係の点滴や胃管、酸素吸管などあるけれど、だいぶ楽になった。看護師さんの手を借りずに自立歩行練習を行う。ゆっくりと、病室を出て、廊下を一回りするだけだ。今日は病院へ来られなかった妻へ電話する。感動している。この日、さらに胃管も抜去された。喉の痛みから解放される。
24日、かなり自由に歩ける。フロアの椅子でゆっくり読書も出来るようになった。友人へも電話で現況報告。この日は、西村、矢野先生たちの指導によって飲水テストが行われた。飲水テストはレントゲン室でレントゲン内視を行うもので、このとき水500m?を飲み込んで水の通過を確認する。術後に初めて飲み込みをすることになるので、不安はあったけれど「臍を見るようにして、顎を引きながら」という西村先生の指示にしたがって飲み込むと、なんなく通過した。いよいよ食事が出来るようになるという再生感。 25日、今日からいよいよ食事だ。といっても、朝は水とお茶だけ。その後、午前中に4人部屋へ移動した。昼夕食は、おもゆ、コーンスープ、ブラマンジェ。この夜、痒くて眠れず。絆創膏負けをする私である。ガーゼ止めなどのテープの跡が痒いのだ。 26日、今日は三分粥を食す。妻が心配げに見守っている。ベッドから降りて椅子に座り、30分ぐらいかけて、ゆっくりと噛み、飲み下す。食後は横になってはならない。胃から逆流するからである。30分ぐらい椅子に座ったままジッとして、その後に横になった。朝昼夕の3食のほか、間食を3回。間食は、バナナやヨーグルトなどの簡単なもの。とにかく、食事に手間がかかった。飲み込むと胸前の胃が膨らんでくるのがわかる。長い胃の形をしている。飲み込み音も聞こえた。このほか今日は、首の回りなどの傷口から一部を残して抜糸を行った。痛くも痒くもない。また、術後、はじめて便が出た。午後は友人が見舞いに来てくれた。2時間ほど応対できた。 27日、午前に呼吸管をはずす。点滴は栄養関係1本になる。ようやく自分を取り戻した感じだ。午後、自力で風呂に入る。 28日(土)、五分粥となる。今日も風呂に入った。この日あたりから点滴もなくなり、体からすべての付着物がなくなった。身体の自由を感じる。しかし、血圧が低かったり、傷の部分が突っ張ったり、そのため麻酔が覚めていない体表部分とあいまって、呼吸が思い切ってしきれない感覚がある。また、食事ごとに時間がかかるというハンディ。 29日、点滴台のない自由な身体で病院を歩き回り、読書もした。向かいのベッドのMさんも私と同様の経過で食道癌手術を行った。手術は私より一週間早く、経過も順調で明日退院とか。Mさんがいうには、同室の81歳の方が同じ手術をしたけど、どんどん動いていて、早めに退院できるそうだ、負けてはいられないね、と言っていた。 30日あたりから、しだいに普通食に近づける。抜糸がほとんど完了した。
6月3日、退院。4日間ぐらいは外出せず、家で静養した。5日目の夜に、妻と家の周辺を20分ぐらい散歩した。これより、散歩の距離と時間をしだいに延ばす。盆地の町なので、自転車で静かな空気のよい場所を走ることができる。体調で気になるのは、体重が増えないことと、便秘気味であることだった。 6月15日、退院後の第1回検診。順調回復中とのこと。また、手術の結果、患部にガン細胞はあったが、リンパ節にはなかったという。食べ物の制限はとくにないとのこと。抜糸が完了した。この日、東京で映画を見たり、買い物をしたり、ずいぶん動きが多かったためか、翌日は体調悪く、2〜3日横になることが多かった。しかし、その後は自転車で町の郊外1時間コースを巡ったり、毎日歩いたり、それが習慣となっている。便秘気味も治ってきた。 3ヶ月後の現在は、1時間の散歩や東京で2時間ぐらいの買い物をするのは苦ではなくなった。西村先生から「食事はとくに制限はありません」と言われている。「アルコールは?」と遠慮がちに聞くと「飲み過ぎでなければ」との応え。やったあ。あとは自分の工夫次第だ。 その後、孫たち家族と一緒に2泊の旅行ができたし、動きの範囲を広げて、10月からの復職に備えよう、というのが現在の思いである。
<食事のこと> ・食道と胃の吻合部は、食道部が袋状に膨れるため穴状になる。ちょうど瓢箪のへこみ部分をもっと狭くしたようなものだ。また吻合部は月日とともに肉が盛り上がるらしく、そのため穴は術後2ヶ月ぐらいをピークにさらに狭くなる。 ・食べ物はよく噛んでゆっくり飲み込まないと詰まってしまう。食事の途中で詰まると、開通するまで5〜30分待つ。ひどいときは食事を始めたとたんに3〜4時間ぐらい詰まりっぱなしで、食事が中断された。何回もトイレに行き、吐くが、なかなか開通しない。しかし、時間さえかければほとんどの場合開通する。現在は、詰まらないように工夫して、詰まることがかなり減った。詰まったまま開通しない場合は、短時間で穴を広げる処置がある。内視鏡ほど苦しくはないそうだ。 ・できるだけ柔らかいものを食べている。朝は粥とおかず、昼はそうめんとか、簡単なもの、夕食は普通のご飯である。間食は、バナナ、ジュース、ケーキ、煎餅、果物、など。東病院の食事指導の先生から紹介された間食などの食品もいい。 ・3ヶ月を過ぎた現在でも、食べ過ぎるとあとが苦しく、1時間ぐらい横になる。次第に慣れるそうであるが、まだ時々寝込む。 ・アルコールは術後2ヶ月半のときから、一日半合ぐらい飲んでいる。寝る前に飲んで、眠りやすくする。はじめは半合ぐらいでも、2日酔いをした。 ・食事をすると胸前が長い胃の形で膨らむ。間もなくパンパンになる。胃の容量は手術前よりかなり小さくなるらしいのだ。食べ物は、胸前の胃から、鳩尾の辺りを通って、腹内へ落ちていく。普段は上に一枚着ただけで膨らみは目立たないが、食事後の膨らみは若干目立つ。冬はいいが、夏は首の傷が隠れるようにするなども含めて、衣服に工夫が必要のようだ。 ・胃が胸前に持ち上げられた分、腹が凹んだ。 ・食事や水の飲み込みの際に、時々、胃に食べ物の入り込む音がする。グビッという音など。音がしないように工夫しているけれど、うまくいかない。さらに、就寝中に胃が泣くような音を10秒ぐらい出すことがよくある。何回も鳴く。撫でてやると鳴き止むことがわかった。 ・胃からの逆流があるので、枕を高くする。たまに、朝起きると胃液が喉に逆流してヒリヒリしたりする。枕元に水のペットボトルを常置して飲む。 <薬> ・常用薬など、服用する薬は一切ない。 <体重> ・健康時の体重は68キロ(身長170cm)であった。現在は、体重57キロ。10キロ減というのが術後の体重らしい。 <傷> ・傷は「痛む」というより「つっぱる」という感じ。それで困ることはない。見た感じが痛々しいだけだ。 ・痛みを感じるのは背中が多く、おそらく「硬膜外麻酔」のために背骨に穿った傷か、脇腹を横に肩胛骨の下まで切った手術痕の痛みである。あるいは、背筋力の弱まりによる背中の疲労感も時々感じる。3ヶ月たった現在は、以前よりは痛みは少ないものの、長い間椅子に座ったりすると背中に苦痛を感じる。 ・手術痕はほとんどくすんだ色に落ち着いてきたが、再手術した2カ所は3ヶ月経た現在も赤みを帯びている。 <呼吸> ・傷の「つっぱり」のためもあって、深い呼吸がしづらい。腹式呼吸を意識的にやっている。現在は無意識に出来ているが、吸い込み時が不十分な感じは否めない。身体パワー減少の一因になっている。 ・3月頃から声がかすれるようになった。一時期より治った。おそらく抗ガン剤のせいだと思う。
1月からつづいた「食道がん騒動」がようやく落ち着いて、いよいよ復職という社会活動に向かいはじめた私です。振り返ってみると、日々に追われていた過去60年間とは大いに違った半年間でした。その違いの第一は、それまであまり感じなかった「支えられている」という感覚です。ほとんどのことが自分の力でやってこられたと思っていました。しかし、この半年間の経過で、大津先生・浜本先生・西村先生・大幸先生・矢野先生や看護師さんたちをはじめ、医療スタッフの方たちによる真剣な支えを得、娘夫婦や息子とはそれまで以上に絆が深まり、とくに感じたのは妻の献身、そして親戚の方々からの厚い励まし、また友人や職場の仲間たちの温かい支え、オミノさんのように「癌」との闘い方を具体的にチャーターして励ましてくれるサイトの方々など、振り返ると「私のために」たくさんの方々が支えてくださった日々がありました。それで私は否応なく「支えられている」という感覚を実感としてもつようになったのです。それまで私が思っていた、自分を中心とした世界が、仮の姿にさえ思えます。そしてこのことは、はじめて「自分が自分のために闘った半年間」でもありました。つまり、自分を含めて、たくさんの方々に支えられた半年間であったわけです。これからの第二の人生に向けて、この実感を大切にしたいと思っています。 |
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